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「汎水論」ノート05

「汎水論」を書きはじめた2015年8月からのメモ書きノートに少し手を加えながらテキストデータにして残そうと思います。さらに、当時の読書のことなどを思い出しながら、少しの追記を試みます。


「汎水論」ノート05


John Cage        inside of sounds
     音を構成する粒子の様々な運動

水蒸気と氷雨 群生する羊歯や灌木

老木の根かたに石のように見える骨色の茸が生えていた

 下 舌 羊歯 自他 耳朶

               鏡のように磨かれている金属板
               銅板を腐蝕する 薬液
加納光於
 傷つけるという生命的な挙動
  その傷痕は、すべての物象の境界を超えた〈生命〉を喚起する

 詩はつねに物質と人間との接触の現場にある

 言葉は想像の貯水池
    発音されることでたえず新鮮な水を供給する

  発音=言葉の容量以上の意味内容をそこに充溢させる行為


(追記)
これらのメモも、「汎水論」ノート04に引き続き、武満徹『音、沈黙と測りあえるほどに』(新潮社、初版1971年10月20日/17刷1993年5月25日)からの抜き書きのようだ。

▼ジョン・ケージは音の内部――inside of sounds――ということを言う。……音を構成する粒子のさまざまな運動までも拡大しようということである。……だからジョン・ケージの増幅された音響を、電子工学的な手段の面で解析することはできない。その進行する拡大された音響を聴くことがジョン・ケージの音楽であり、それは私たちの音楽でもある。

ジョン・ケージとともに、ホノルルでの音楽祭の日程を終え、ハワイ島を訪れた思い出――。
▼野鳥の森は、群生するしだや灌木に覆われて道もさだまらぬ。暗い樹々のドームの内部を行くと叢に咲く熱帯の蘭の花は異次元の世界のもののように見えた。私は、すべてを新しく名附けてよろこびたいような感情にとらえられた。そして、鳥たちの会話を理解することができた、と思った。……うつろいやすいものたち。いっときも同じには繰返さない鳥の啼声、鮮やかな蘭の紫、雨、風。

「いっときも同じには繰返さない鳥の啼声」――これについては「吃音宣言」の中にも指摘があった。

▼鳥はおなじようなさえずりをくり返しているように思える。だが、鳥類学者の研究によると、鳥は死ぬまでに再びおなじうたいかたをしないのだそうである。……ぼくらにはおなじように聴こえても、どもりも鳥も、いつも同じことはくりかえさない。その繰りかえしには僅かのちがいがある。このちがいが重要なのだ。

「反覆」にしのびこむ「差異」を聴くこと。

▼老木の根かたに石のようにみえる骨色のきのこが生えていた。ケージは「たぶんこれは君と同年齢だろう」と言った。きのこは沈黙の形態のようにみえた。私たちは永い間それを凝視(みつ)めていた。


▼加納光於は〈描く〉かわりに銅板を腐蝕する。鏡のように磨かれている金属板――これは魔術の水晶玉のように、あきらかに何かを映しだすものだ――を薬液で腐蝕していく。それは自己の内部との対話でもあり、外界との交渉のために必要な彼の唯一の手つづきである。鏡のような金属板の上を、薬液がながれる、はしる。

▼加納光於は〈描く〉ということを、傷つけるという生命的な挙動に還元する。傷つけることが排他的な愛のあかしでもあるように、その傷痕は、すべての物象の境界を超えた〈生命〉を喚起する。彼のユニークな地質学と生物学と植物学は、金属板のうえに一つの風景を浮かびあげる。それは、私たちが胎内で見た風景かもしれない。人と獣の貌は判然としない。樹は人間のようでもあり、あるいは石は人かもしねぬ。

引用される詩人・大岡信さんの言葉――
▼――以前加納光於と話していたとき、彼がこんなことをたずねた。「詩人は自分が書き記した詩句を、あとで何度も手を入れて修正するものなのか? 詩とは、そんなふうにしないと発見されないものなのか?」 この問いに、ぼくは加納光於という幻視的な画家から突き出されたひとふりのナイフの閃きを見た。加納光於にとって、いったん自分の中から溢れ出て形をとったものを、修正することは考えられないのである。(中略)詩はつねに物質と人間との接触の現場にあるのであって、この現場を離れたら、もうくよくよ思い患ってもしようがないのである。――

▼加納光於の作品は、既に起こったことのしるしではない。奇妙に聞こえるかもしれないが、それは、つねに起こりつづける状態への決定なのだ。

この武満さんの書物は、「汎水論」を書くうえで、示唆に溢れていた。

長編詩「汎水論」は元々、分水嶺から北へ/南へと川をたどりゆく「分水」の書として書きはじめた。その一行一行は、「たどり」の足跡を残すように書いてゆくというよりも、その一行一行の現場で、生起しつつある出来事として書きたいと思っていた。「つねに起こりつづける状態」の出来事として。


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