加納光於さんからの手紙
2008年1月11日、48歳の誕生日の日付で、第一詩集『干/潟へ』を上梓した際、版元の思潮社様を通じて、かねてより敬愛していた芸術家の加納光於さんへ謹呈させていただいた。
年が明けて2009年早々、思いがけず加納光於さんより「年賀」の朱印が押された封書が届き、驚喜した。中には、「賀春2009」の文字と朱色の瓢箪に「うし」の白抜き文字のある小さな印が押された薄い紙と手書きの手紙、版画のカードが入っていた。
手紙には『干/潟へ』の礼とともに、
▼「はるかむかし、ひと気の絶えた渓流の小石につまずきながら、岩魚を追っていた下手な釣り師の自分がよみがえって来ました」
と、美しい手書き文字で綴られていた。
うれしくて、うれしくて、興奮さめやらぬまま、1週間ほども返信の文面を考えた。版画は函型の額を購入し、『干/潟へ』の表紙と同様の紙を背景として額装し、今も部屋に飾っている。
加納光於さんの名前と芸術を知ったのも、『宮川淳著作集』からだったと思う。はじめて作品に接したのは20歳すぎの頃、銀座のギャラリーでだった。会場に入っていくと、中央で、こちらを向いて立たれている、小柄ながら凛としたオーラを放つ人の、鋭い眼光に射竦められ、一瞬背筋を伸ばして視線を落とした。会場を一巡して早々に退室。あの人こそ加納さん本人だった。今ではその個展で見た作品がどのようなものだったかも思い出せないが、あのビクっとした緊張感は背筋が覚えている。
二度目は28歳の頃、「書肆山田」の創業者・山田耕一さんが経営されている「山田画廊」でだった。場所は東横線の学芸大学駅近くだっただろうか。加納さんの初期銅版画作品や亜鉛合金をガスバーナーで焼いて版そのものを作品とした《MIRREOR 33》を見たような気がする。画廊には私一人で、そう広くはない部屋に30分ほど佇んでいると、背後から「こんにちは」と声をかけられた。振り返ると駱駝色の暖かそうなセーターを着た初老の方が立たれていた。それが「書肆山田」を創業された山田耕一さんだとは後に知った。多分、宮川淳さんの本を読んで、瀧口修造さんを知って傾倒し、加納光於さんの版画が好きだ、などということをお話ししたのだと思う。帰り際に書架の上のほうから一冊の大型冊子を取り出して、「どうぞ」と私に差し出された。それは加納光於さんの大型書籍『葡萄弾―偏在方位について』(美術出版社、1973年)に添えられた瀧口修造さんの『雲の収斂―彷徨観想者の手稿』だった。
加納さんのこの大型書籍は、国立国会図書館で閲覧し、不思議な断章群を手書きで必死にルーズリーフに書き写していた。「こんな貴重なもの、いただけません」と固辞すると、「君が持ってればいいよ」と手渡してくださった。「そうだ、これも」と渡された小さな黒い本は、瀧口修造『地球創造説』(書肆山田版)だった。
うれしくて涙きそうになりながら、深々とお辞儀して退室した。
こうした思い出とともに、詩集『干/潟へ』所収「鶺鴒一册」の1ページに書いた「ざら瀬」という言葉は、詩人・大岡 信さんの『加納光於論』(書肆 風の薔薇、1982年4月30日第一刷発行)の「あとがき」から採取した旨を手紙に認め、加納さんへ返信した。
大岡 信『加納光於論』あとがき
▼ひと昔前、1972年盛夏のこと、私は加納光於とともに紀州を南から北へさかのぼる旅をした。朝日新聞の「流域紀行」というシリーズ連載で熊野川の紀行文を書くためである。約2週間に及ぶ連載の挿画を、私は加納さんに依頼した。一緒に旅行をしたのはそのためだった。
その旅で私に印象的だったことの一つ。熊野本宮に参拝したあと、十津川沿いに日本屈指の巨村という奈良県十津川村を車で北上していった。全村面積の約9割が森林で、人の集落は山の斜面に辛うじてしがみつくように点在するばかり。そしてその山は、まぢかに十津川に迫って切りたっていた。私は耕地のあまりの少なさに驚きをおさえかねた。加納さんはもちろんあたりの状態をじっと観察していたが、そのときぽつりと彼が洩らした言葉は私の意表をついた。
「ザラ瀬ばかりね、この川は」
耕地の極端に少ない山沿いの土地で生きる人々の生活は、必然的にきびしい条件にさらされている。私はそのことばかり考えていたが、加納光於は同時に、釣り師としての批評的観察をもって十津川の流れを見おろしていたのである。
加納光於を思うとき、私はしばしば、この小さなエピソードを思い出す。思い出すたびに愉快な気分になる。
加納光於が芸術家として経てきた過程は、「ザラ瀬」には釣り糸を垂れない決意と嗜好の歴史だった。
この本に収めた詩と散文は、そういう加納光於について私が書いてきた文章の、現在時までの一まとめである。他にも加納さんに触れた文章は少なくないはずだが、ここには加納光於を単独で対象にしたものだけを集めた。この世のザラ瀬からたえず立ち去り、好んで困難を求めて別のルートを切り拓いてゆく冒険者への、友情と敬愛のささやかなしるしとして。
1982年3月 大岡 信
加納さんからは折り返し、2009年3月9日(月)から28日(土)まで、「ギャルリー東京ユマニテ」で開催される個展《身振りのアルファベット、あるいは跳ね馬のように》の案内状が届いた。3月22日の日曜日、私は妻とまだ小学生だった娘と息子の4人で東京を訪れた。画廊は閉まっていた。案内状の「(日曜、祝日休廊)」の文字を見過ごしていた。銀座の中央通りは人混みで、何かと思えば「東京マラソン」の開催日だった。私たちはしばらく走り去るランナーを見送った後、東京駅の地下街でラーメンを食して早々に高崎線で帰路に着いた。
その翌年2010年の暮れに、やはり「ギャルリー東京ユマニテ」で個展《鳥影―遮るものの変容》が開催され、12月18日(土)には、詩人の藤原安紀子さんの詩の朗読と加納光於さんのトークがあると知り、今度は妻と二人だけで訪ねていった。この時はじめて加納さんにお目にかかり、ご挨拶できた。イベント終了後、持参したご著書『夢のパピルス』(小沢書店、1993年1月20日 初版発行)にサインをお願いすると、「こういうのは苦手なんだけどね」と笑いながら虹色の色鉛筆を取り出して、サインしてくださった。額装した版画とともにこの本も宝物の一つ。
その後、2013年9月14日(土)から12月1日(日)まで、「神奈川県立近代美術館 鎌倉」で大規模な個展《色身(ルゥーパ)―未だ見ぬ波頭よ2013》が開催され、10月20日(日)にはアーティスト・トークがあると知り、妻と出かけた。
この展覧会のことや、そこで展示されていた大岡 信さんとの共作《アララットの船あるいは空の蜜》のことなどは、また別稿として書きたいと思います。
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