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星は昼

 夜、ベランダに出てみると、意外なくらい星が出ていた。田舎から市街地のアパートに越してきて二週間ほど、夜間に外出したこともあったが、暗い空に地上の光がうつっているばかりで、自宅の夜空も似たようなものだと思っていた。おそらく出歩くときはなるべく明るい道を選んでいたせいだろう。ベランダから見る空は、「満天の」とは言えないまでも間違いなく星空だった。
 住んでいた田舎の空は、撫でれば手のひらにざらつきそうなほどの星が見えた。そんな感想が出てくるのはたぶん、理科室の机に似ているな、と思ったことがあったからだ。黒く塗装された理科室の机に試薬の白い結晶をこぼした記憶と、暗い空に濃く薄く散らばる星とが重なる。誰も見ていなくても気恥ずかしくて、実際に手を伸ばしたことはなかったが、撫でたらざらついて星が手のひらにつくのだ、と決め込んでいた。
 ベランダから見る空は、ざらついてはいない。かといって数え切れるほどの量ではない。大きい星と小さい星が、すっかり灯りを落とした住宅街の上にぱらぱらと散らばっている。住まいは暗いとはいえ、空に仕切りはないものだから、遠くの繁華街の光を受けて、細かい星は見えない。黒い布をぴんと張って、気の向くまま針でついたような、大雑把な感じのする星空だ。おおらかでとてもいい。ひとつ、これ、と決めた星をじっと見つめると、微かに瞬いているのが見て取れる。そのそばを点滅しながら行き過ぎるのは飛行機だ。赤い光が灯っているから、間違えることはない。子どものころはゆっくりな流れ星だと思って興奮したのを思い出す。そう信じ続けた期間には覚えがないから、きっと両親が事実を教えてくれたのだろう。家族で星を見ることのあった子ども時代というのは、幸福である気がする。覚えてもいないのに、しみじみとする。
 星が布の穴から漏れた光だと思うと、大きな布の向こうは昼なんだろう。さっと布を取り除けるイメージが瞬きする瞼の裏を行き過ぎる。幾度か瞬きするうち、そういえば地球の昼は太陽の光なのだから、目の前の星も昼には違いないよな、と気づいた。遠く離れているから暮れたり明けたりしないだけで、あの星のひとつひとつが昼の光だ。
 高い昼、低い昼。遠い昼、近い昼。
 どの星もいずれ暮れて、二度と戻らない昼だ。
 夜も更けてきたので部屋に戻った。ちゃんと眠って夜を明かそうと思った。

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