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人生はガチャの連続である
【親ガチャ】
"親ガチャ"にはアタリハズレがあるらしい。
今年になってTwitterを始め、その中で初めてこの言葉を知った。
初めて知ったが、見た瞬間なにを意味しているかは分かった。
「子どもは生まれるときに親を選ぶことはできない」そういうことだ。
大体のツイートは自分のハズレガチャへの恨み節なのだが、一部違うものもあった。
親ガチャで失敗したけど、
「自分は」努力で有名校に入った
「自分は」努力で高所得者になった
だから
「親ガチャ」なんて関係ない。すべては自分の努力の結果だ。
いつまでも親のせいにするなんて他責思考だ。
これを見て、ここしばらくずっと思うところがあった。
最近よく「他責思考」という言葉が耳目にかかるが、この言葉の使い方に、なにか違和感がある。
でも、なかなか考えがまとまらない。
違和感が確信になったのは、内戦のシリアで3歳の子どもを育てるお父さんの動画だった。
違和感の底が見えてきた。
● 人生は本当に親ガチャで決まるの?
● 他責思考はそんなにいけないこと?
その自己効力感は本物だ
私はこの「他責思考」という言葉の使い方に違和感は感じるが、自分で道を切り拓き、結果をだした人を本心から尊敬する。
置かれた状況から、努力を重ねて得たその自己効力感はきっと本物だ。
それでも、「境遇に恵まれず、結果を出せなかった」と思っている人に「環境のせいにするのは努力不足」で「他責思考」だと他者が評価を下すことはできるのだろうか。
私はいくつのガチャをひいたのだろう?
人生は「ガチャ」の連続なのだ。
シリアの親子の動画を見て、私はそう感じた。
「ガチャのせいにするのは他責思考」と言う人は、このような状況下の人にもそう言うのだろうか?
産まれる国や生まれる時代ガチャに対しても内省を繰り返し、なぜ自分がこのような境遇に遭うのかを「自責思考」でとらえるべきで、無作為に攻撃してくる人たちに「あいつらさえいなければ」と思うことは「努力不足」なのか。
私はそうは思わない。
私は産まれるときに
・時代ガチャ
・国(地域)ガチャ
・親ガチャ
・健康ガチャ
・顔面ガチャ
をひき、成長の過程で
・(公立の)学校ガチャ
・先生ガチャ
・読んだ本ガチャ
・友達ガチャ
・上司ガチャ
・同期・先輩ガチャ
をひいた。
その中にはアタリもあればハズレもあった。
・乗り合わせた電車ガチャ
・隣に座る人ガチャ
・ぶつかった人ガチャ
・食べたランチガチャ
などは日々ひいているし、(親ガチャなるものがあるならば)3年前に子どもガチャをひいた。
今の私は、無数のガチャの積み重ねや掛け合わせで存在している。そう思っている。
ガチャにアタリ・ハズレはあるか
「欲しかった」ものと違うガチャをひいてしまうことがある。
子どのころ、めったにやらせてもらえなかったガチャガチャをやらせてもらえたことがある。
当時、アニメ化されたばかりの『ちびまる子ちゃん』のフィギアだ。
私はたまちゃんかお姉ちゃんが欲しかったが、出てきたのは友蔵だった。
「ハズレた!」。たった1度のチャンスをはずした悔しい気持ちや恥ずかしい気持ちを今でも覚えている。
でも、もしかしたらこの友蔵は、誰かにとっては(まる子ガチャのコンプを目指していた人とか)アタリだったかもしれない。
思い出してほしい。
私は「たまちゃんかお姉ちゃん」が欲しかった。おそらく大アタリのはずのまる子が出ても、私にとってはハズレだっただろう。
この時の友蔵はもう手もとにないが、30年前のこのエピソードは今ではネタとして私の心に残っている。あのとき、念願のたまちゃんが手に入っていたら、おそらく人形もあの時の感情も私の手もとには残っていない。30年後の私にとって、あの友蔵は「アタリ」になった。
1つのガチャはその後の人生によって意味づけられる。
それがどう意味づけられるかは、その後の人生でひくことになるガチャと通じて変わっていく、と私は思う。
ガチャとは予測できない転機なのだ。
他責思考はいけないことか
ビジネスの場では「他責思考は望ましくない」とされる。
できる社員(成長する)=自責思考
ダメな社員(成長しない)=他責思考
といった具合に。
メンタルが弱いと評価されることもある。
でも、本当に他責思考はメンタルの弱さなのだろうか?
他責は、自分の力ではどうしようもなかったことを引きずらないために、ある程度必要なものだと思うのだ。
「これは自分ではどうしようもなかった」
「今回はついていなかったが、これは自分のせいではない」
そう思うことで、次に進めることもある。
そもそも、自責も他責もどちらも「認知の歪み」で、そこに優劣はない。
「郵便ポストが赤いのも、晴れた空が青いのも、人身事故に巻き込まれ遅刻したのも、すべて自分の責任だ。どうしたら回避できただろうか」と考えている人が、できる人だろうか。
「ビジネスの場」というのは厄介だ。いろいろな言葉が「ビジネスの場」独特のニュアンスをもって広がり、それがまるで本来の意味のように使われてしまうことがある。
モチベーションやキャリア、自己肯定感などもそうだ。
そこに「良い/悪い」「成功/失敗」などと、安易に優劣をつけたり、一般論として外からの評価を与えることはできないのかもしれない。
学歴やビジネス(年収やポストなど)での成功こそが、万人の正解ではない。
そもそも「成功」というのは、誰のなにと“誰が”比べて決めるのだろう。
実はその結果は「生まれ持った最強のメンタルガチャ」や「最高のメンターとの出会いガチャ」の賜物かもしれないのに。
「弱い」とはなにか
まだ完全とは言えないが、身体の弱さは仕組みや体制で受け入れようという姿勢ができつつあるように思う。「あなたは身体が弱いからダメだ」と面と向かって言うような人は今ではあまりいない。
他責思考をメンタルの弱さと仮定する。
もしそうだとして、なぜ「病弱なんです」と同じように「メンタルが弱いんです」とは言えないのだろう。
メンタルの弱さは努力と根性でなんとかするべきだと思われている節があるように感じる。
人事として採用活動をしていてもふと疑問に思うことがあるし、HR系のツイートを見ていてもなにかが胸につかえることがある。
ストレスへの耐性がないと分かっていて、それに対する対処方法(時には他責にし忘れるなど)を持っていたら、それは1つの強さなのではないか。
「私はメンタルが弱いです。でも自分で対処方法が分かっています。」「こうやってサポートをして頂けませんか?」と安心して言えるようになるときが、本当に多様性を受け入れられたときかもしれない。
弱さ、強さとはなんだろう。
弱いからと言って文字通りの意味で《生きられない》世界ではなくなった今、弱さと強さのバランスも、それを表す表現も見直していくときなのかもしれない。
それぞれが自分のガチャを振り返える。生まれる時から人はそれぞれ違うガチャをひいて、瞬間ごとに違うガチャをひき続けている。
世界は一つじゃないし、目の前の人は"あなた”じゃない。たとえ少し似ていても。
あふれるガチャとどう向き合うか
私はこれを「弱い人にはやさしくしよう」「他責思考も受け入れるべきだ」で終わりたいとは思わない。
他責思考は自分を守る手段ではあるけれども、やっぱり成長にはつながらならないし、他責思考の先に「幸せ」はないと思うのだ。
●ハズレだと思っていたガチャに新しい意味を与える
●ハズレばかりひきてきたと思っていたガチャの中にアタリを見つける
●ガチャをひいただけの人生ではなく、自分の選択もあったことに気づく
その“お手伝い”が出来たら、事実としての他責を受け止めながら、自分が主役の人生を歩めるのではないか。
私はきっと、そんな仕事がしたい。
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