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意味を問うのではなく、何を問われているのか

束の間の休暇も本日で終わり、私は明日からまた仕事が始まるわけですが皆さまいかがお過ごしでしょうか。

精神障害を抱えた方の相談支援のソーシャルワーカーになって3年目になりましたが、私は30歳を過ぎてから専門学校に入りなおして資格を取ったので、もうアラホーと呼ばれるいい年なんですがまだ若手という複雑な立場にいます。

それまではサラリーマンや配送系の仕事などをしており、民間の方が長かったのですが、自分もさることながらその頃家族も1年単位で病気などが重なり(妹がうつ病、父が脳梗塞、祖母が認知症)プライベートの時間も家族のサポートや対応をしなければならなかったのです。

その頃はPSWや社会福祉士などの専門職がいることはなんとなく知っていましたが、どこに相談するべきなのか分からなかったし、そもそもこんな複合的な問題が絡まったことを筋道立てて説明できる自信もなかったので自分も家族も共に疲弊していたと思います。

配送系の仕事をしていたのは、1年間の寝たきり生活でバグっていた頭と体を規則正しく改善していくことと、極力頭を使わずにともかく体で学んでいくために選んだので好きでやっていたのではなかったです。(またこの会社も超ブラックだった)

その頃にタイトルにもありますが、V.Eフランクルの「夜と霧」、「それでも人生にイエスという」に出会い「人生に意味を問うのではなく、人生から何を問われているのか。答えはすでに足元に届けられている・・・」という言葉に衝撃を受けたわけです(所謂コペルニクス的転回で脳みそがグルンってひっくり返った感覚がしました)。

有名な本なので改めて説明はしませんが、ナチスのホロコーストを生き抜いた心理学者で、敬虔なユダヤ教徒でしたが宗教や思想を超えた普遍的な内容で、自分の求めていたものだと感じてからは彼の書籍は殆ど通読しロゴセラピーに傾倒していきました。

自分はなぜ病気になったのか。なぜこの家庭に生まれてしまったのか。正しい信仰ではなかったのか。どこかで自分が間違っていたのか・・・といういくら考えても正解も答えもない疑問を頭の中でグルグルやっていたものがピタッと止まったのはこの本のおかげなのは間違いないです。

配送の仕事は過酷で肉体的なしんどさに加え、パワハラ、モラハラの巣窟だったので、当時の強制収容所を自分の置かれている環境に置き換えて「自分はまだ命を取られないだけ全然マシだな」と慰めたものです。部長はゲシュタポ、上司はカポーと心の中で呼んでいましたが。

結局その仕事は5年弱続けましたが、このまま奴隷のような人生は嫌だったことと、家族の対応や自分のこともあったので、どうせやらなきゃいけないなら仕事にしてしまった方がいいやと思ったので福祉の方へ行くことに決めました。(後は人のために働く福祉を選ぶことで宗教と代替させたいという気持ちもあった)

また、学校はキリスト教系の学校を選んだんですが、理由としては自分の宗教と違う環境に身を置いて自分を見つめてみたかったことと、フランクル関連の本に出てきた学校だったので興味を持ったこと、東京の好きな街の近くだったこともあり新しい人生を送りたいという今までにない気持ちが芽生えてきたからでした。

やりたい福祉の分野が漠然としていたため(本当は宗教2世のような自分と近い人を支援したかった)社会福祉士のコースを選び、見事合格。その後少しづつ引越しの準備や仕事の引継ぎなどの調整をしていき、ようやく自分の人生がスタートしたわけです。

どん底から導いてくれたフランクルに出会わなかったら今の自分は存在しないので、不思議な縁だったなと感じています。

長くなったのでここまでにしますが、その後東京に行きどのような経験をして今に至ったか気が向いたらまた書きたいと思います。









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