【小説】田辺朔郎 ②出会い
明治初頭 遷都により京都は衰退の只中にあった。起死回生の策として琵琶湖から京都に水を通す「琵琶湖疏水」が計画された。当時の技術水準を上回る無謀な工事に挑んだのは若干21歳の青年技師「田辺朔郎」だった・・・
京都
平安以来千年 京都はこの国の都であった。
幕末には政治闘争の舞台となり、テロリストまがいの政治活動により治安が悪化、長州班と薩摩班が対立した蛤御門の変では火災のため市内の約半分の家屋が焼失した。
さらに明治二年には天皇陛下が行幸(旅行)名目で東京に移転、京都の人にとってはだまし討ち同然で実質的遷都が行われた。天皇家とともに宮家6家、公卿137家、および97の諸藩邸の要員は屋敷をたたんで東京へ移転し、それらの御用を務めていた商売もなりたたなくなり、京都が衰退して行く事は誰の目にも明かであった。
薩摩藩と長州藩を中心とする新政府要人の間には、京都に対する贖罪の念もあったのか、明治三年京都府に約140億の産業基立金が交付されている。
北垣国道
京都府の初代知事は長谷信篤という藤原氏の流れをくむ公家であったが、実質的な府政は 後に第二代知事となる槇村正直がとり仕切っていた。
槇村知事は東京遷都により衰退する京都の復興のため、工場や病院を建設し、学校教育の充実をはかるなど様々な功績のある人物であるが、議会の承認を受けず独断専行するなど強権的な運営をおこなったため、その末期には求心力を失っていた。
また、西洋化を進めるのに熱心なあまり、古い習慣を非科学的であると排斥する傾向があり、五山の送り火をはじめとするお盆の行事を禁止させたり、粟田口処刑場の慰霊碑を壊し道路工事に転用するなど、当時日本中に吹き荒れていた廃仏毀釈運動の実行者としての一面もあった。
北垣国道はその後を受けて明治14年2月第三代京都府知事として就任した。
幕末においては、長州藩と共に活動し、北海道開拓使、政府中枢の書記官、高知県知事、徳島県知事を歴任した。自由民権運動が盛んで、統治が困難とされていた高知県をうまく治めた手腕を評価され、伊藤博文など政府首脳から京都の復興をよろしく頼むと期待をかけられて着任している。
北垣の見立てでは、京都は内陸の盆地であり、港や水利に恵まれている訳では無く交通の便が良い訳でもない。人口を支える後背の平野も少なく、都市発展の条件に欠けている。只ただ都が置かれたことのみにより栄えた人工の都市にすぎない。
これを発展させるには、交通の便を整え水利を巡らす事が必須である。特に水については、渇水期には鴨川は干上がり飲み水にも困るありさまであり、農業・工業の発展に足かせとなる事は明らかだった。
水の確保が京都発展の最重要事項であると見定めた。
幸い山を隔てた隣県には なみなみと水を湛えた日本最大の湖「琵琶湖」がある。古来平清盛や豊臣秀吉も琵琶湖から京に水を引くことを計画したと言われている。絶大な権勢を誇った時の権力者ですら実現不可能だった計画 ―琵琶湖疏水― それを、私が実現するのだ。
北垣は決意した。
府庁に記録が残っているこれまでの計画は、寛政12年(1672)頃のもの、天保年間(1682頃)のものがある。
寛政12年の計画は、大津市早尾神社付近から南禅寺北方の鹿ヶ谷まで直線が引かれたもので、比叡山の下をくぐるトンネルの延長は5㎞弱となり技術的に困難で無理がある計画に見えた。
天保の計画は大津市尾花川から長等山の下を通って藤尾に至り、山科北方の山麓の裾野を巡り、蹴上に至るもので、トンネル延長は約2㎞で寛政の物よりは実現可能性のある計画となっている。
他にも明治期に入って提案された計画がいくつかあるが、天保の計画の焼き直しで見るべきものは無かった。
これらの計画に実現性があるのか?
まずは琵琶湖と鴨川の高低差を知る必要がある。北垣は測量を命じた。
そしてこの計画の一番の難題が、長等山をくぐり抜けるトンネルの掘削である。
この時日本最長のトンネルは、明治13年に開通したばかりの京都ー大津間の鉄道に設けられた逢坂山トンネルの665mであった。その3倍以上に及ぶトンネルの掘削が果たして可能であるか?
西洋の技術に期待する他は無い。
この当時明治政府は西洋の技術を取り入れるため、大きな工事はお雇い外国人にて実施するのが通例であった。
ただし、お雇い外国人は極めて高給である。一例として、工部大学教頭ダイアー博士の月給は1320万円、当時太政大臣三条実美の月給が1600万円だった事からして その高給ぶりがよく分かる。
かつて北海道開拓使において事業をおこなっていた北垣はその事を熟知していた。日本人技術者であらねば費用面でこの計画は頓挫する。計画実現の過半は技術者の確保如何にかかっていると言っていい。
北垣はその人選を慎重に見極める必要があった。
測量の結果、琵琶湖水面と京都三条大橋の高低差が43mである事を確認し、明治14年5月北垣は東上した。
北垣は工部大臣伊藤博文に疏水計画を述べ 大いに賛同を得、技術者の人選について相談した。
「先年設立した工部大学が軌道に乗り、今まさに日本人技術者を育成しつつある所である。校長の大鳥圭介君に聞いてみてはどうだろうか。」
その日
工部大学を訪れた北垣は、大鳥圭介に疏水構想を語り、この工事をなし得る者の有りや無きやを尋ねた。
大鳥は即座に答えた
「本校の学生で、来年卒業年次を迎える田辺朔郎という者が居る。彼ならば、この大工事を成し遂げる事間違いない。」
校長室に呼ばれた朔郎は、その日初めて北垣知事と対面した。
北垣は柔らかい微笑みを浮かべながらも、人を見極めるため、維新の修羅場をくぐってきた炯眼をもって注意深く朔郎を見た。
まだ幼さの残る優男である。若い。若すぎるのではないか・・・
北垣は疏水計画の概要を述べ朔郎に試問した。
「疏水計画実現の要は、琵琶湖と山科の間の比叡山を通すトンネルの成否にかかる物とお見受けします。おそらく3km程度のトンネルが必要でしょう。
現在本邦において最長のトンネルは、昨年開通した逢坂山トンネルの665mでありますが、海外の事例においては、米国マサチューセッツ州フーザックの鉄道トンネルで7.6㎞、昨年完成したスイス サン・ゴッタルト トンネルなどは15.0㎞に及び、これらを研究することで実現する事は可能でありましょう。」
よどみなく答える朔郎の姿は、北垣にその優秀さを理解させるのには十分だった。
退室後、大鳥圭介と北垣の会話は続く。
「彼はあのような数字を全部覚えているのかね?」
「一度見た物は全部覚えてしまうらしい。考査において円周率を70桁も記載して教授たちをびっくりさせていたよ。」
「しかし、単なる博覧強記の徒では、現場の荒くれ者をまとめて行く事はできないぞ。あのような優しげな少年にそれが務まるのか?」
「その点は保証するよ、私はね、彼を見ていると土方君の事を思い出すんだ。彼も優しげな顔をしていたが、肝は誰よりも据わっていた。」
「土方? 壬生浪の土方歳三? 剣術屋じゃないか。」
幕末、長州藩と活動を共にしていた北垣は、京で多くの同志を斬り殺した新撰組の事を良く思っていない。北垣の顔色が変わった事に大鳥圭介は しまった、と思った。
「まあ、京都では剣術屋だったけどね、函館で見た土方は洋式兵学をみるみる吸収し、さらに発展応用していて、伝習隊で鳴らした私も感心したものだよ、あれと同じような気組みを田辺朔郎に感じるのさ。
ともかくこの事業を成し遂げる人材として彼を推薦するよ。」
北垣はさらに内務卿の松方正義を尋ねた。松方は薩摩藩の出身である。
この当時の政府内は、薩摩閥と長州閥が勢力争いを繰り広げており、陸軍は長州閥、海軍は薩摩閥、工部省は長州閥、農商務省は薩摩閥と言った具合であり、疏水構想に関して、農業政策として農商務省の管轄となるか、工業施策として工部省の管轄とするかは、派閥問題もからんで非常にデリケートな問題であった。
北垣は疏水計画を語り技術者の斡旋を依頼した。
「そげん事なら、今まさに工事しちょりもす安積疏水ば行ってみるとよか。南一郎平いう者が工事を担当しておりもす。」
安積疏水
明治14年7月 北垣は安積疏水の現場に南一郎平を訪ねた。
夏の日差しの中で会った南は、せり上がった額ときつく結んだ口元が意志の強さを感じさせる、岩礁の上に立つ老松のような風格を感じさせる人物だった。
大分県日田の生まれで、地元の悲願であった灌漑水路事業を父から引き継ぎ、トンネル掘削を含む難工事を実施。
破産・投獄の憂き目に逢いながら、当時大分県知事であった松方正義の協力を取り付け、遂に完成させたというエピソードを持つ人物である。
その後松方正義の招きにより内務省農政課に出仕し、安積疏水を担当していた。この時の南一郎平45歳、脂の乗り切った円熟の域にある。
南は北垣を安積疎水の工事現場に案内した。
福島県中央部にある猪苗代湖は、西側の河口から日本海側にしか水が流れていない。 安積疏水(あさかそすい)は東側の山を穿ち水を太平洋側に導き、安積原野を開発するために企画された灌漑施設である。
明治11年凶刃に倒れた大久保利通が強力に推していた事業であり、明治12年に国直轄の農業水利事業第1号として事業が始まった。着工から2年、現在は沼上峠のトンネルを掘削中である。
トンネル延長は591m、通水断面は幅1m、高さ2mで、外壁は石積みで固められ、天井部は2枚の大岩で三角屋根となっている。
安積疎水の計画についてはオランダ人技術者ファンドールン監修のもと、フランスで工学を修めた山田寅吉などが設計し、工事にはダイナマイトや削岩機、通風や資材搬入のための竪坑など最新の工法が採用されていた。
南一郎平はそれらの工事について、熱っぽく説明した。彼の態度は自信に満ちており、田辺朔郎に感じた不安は無い、北垣は早速琵琶湖疏水の調査を南に依頼した。
「訳も無い事です、この工事が一段落ついたら伺いましょう」
南は快諾した。
ただし、南自身は工学を学んだ訳では無く、知識は実務の中で徒手空拳で身につけた物であり、設計は別の者が担当する必要がある。
田辺朔郎、南一郎平、工部省か、農商務省か、薩摩か、長州か、疏水工事の行方はまだ混沌としていた―
1881東京 測量について
もともと朔郎の研究テーマは東京の港湾整備だったが、大仕事の依頼を受けた朔郎は直ちに琵琶湖疏水実現のための準備にとりかかった。
まず手に入る限りの資料を集める。
幸い工部大学の図書館はダイアー教頭の方針で各種資料が充実している。
国外・国内のトンネル工事や各地の疏水工事を調べた。
手近の玉川上水を調査し、通水のためどれくらいの勾配が必要か計測し、水路における水の挙動を観察した。
問題は地図である。
当時最も正確な地図は、伊能忠敬が作成した大日本沿海輿地全図であり、幕末においては国家機密として扱われ、国外に持ち出そうとしたシーボルトが処罰されたという世界最高水準の地図である。
その地図ですら当時地図に高度を表す概念が無く、等高線はまだ発明されていなかったため山地は山のイラストが描かれた絵図の域を出ておらず、疏水工事を検討するには全く役に立たない代物だった。
琵琶湖水面との高低差を表す地図が必要である。
伊能図の測量は「導線法」をもって行われた、これは1点から次の点までの距離と角度を測り、観測した次の点からまた次の点を観測し、数珠つなぎのように測量を進めていくやり方で、距離の測量は地形の傾斜による誤差が大きく、延長が長くなると誤差が蓄積していく欠点があった。
新しい測量法は「三角測量」という現代まで使われる測量法で、まず正確に長さを測定した基線を設け、その両端から求める1点に対して角度を計測し、図上三角形にて結束し、距離については基線の長さから三角関数で計算して求めていくものである。
新しく求めた点から、また新しい点を計測し、三角形の網を次々に拡げ測量範囲を覆うようにして測量を完了していく。この測量には正確な角度を測定する経緯儀が必要となる。
精密機械である経緯儀はまだ国産化されておらず、独カール・バンベルヒ社の二等経緯儀は2000万円、三等経緯儀でも800万円する代物であり、学生がおいそれと使える機械ではなかった。
荒井 郁之助
後に初代中央気象台長となる荒井郁之助は、この時 明治十年に設立された内務省地理局において、全国大三角測量計画を進めている所だった。
彼の妹は朔郎の叔父太一の妻であり、奇しくも朔郎にとって遠縁であり面識があった。
彼もまた旧幕臣で、大鳥圭介とは幕府の洋式歩兵部隊「伝習隊」以来の付き合いであり、操船術に長け函館では海軍奉行を務めた。
降伏後は大鳥と同じく投獄されていたが、釈放後 北海道開拓使に奉職し お雇い外国人ワッソンと共に北海道の三角測量を実施した。ワッソンらの報告書では「荒井の能力にふさわしい地位に昇進させるべきだ」と称賛された人物であり、測量の分野では日本最高レベルの技能を有している。
琵琶湖疏水の測量に当たり、朔郎は親戚の彼に経緯儀の借用を依願するため地理局を訪れた。
「やあ、朔郎君久しぶり、立派になったなあ。大鳥くんが会う度いつも君の話をしているよ。今度琵琶湖疏水の工事を担当する事になったんだって。」
「実はその事で相談が」
朔郎は経緯儀の借用と、測量実施のための助手の手配を相談した。
「経緯儀か、知ってのとおりあれは精密性が求められる機械で、持ち運びは必ず人力でやる事になっている。 こちらの機械を送る事は出来んよ。 京都府の測量部か、地理局の京都部局で借りられるよう何とか手配してみるので少し待ってくれたまえ。 助手については地理局の京都事務所に依頼してあげよう。」
「ありがとうございます!」
測量作業においては、経緯儀で観測する人の他に、観測点でターゲットを持つ助手が必ず必要である。さらに観測した数値を記録する係が居れば作業がスムーズになる。朔郎には人を雇う金もなく、学生の身にとって助手の確保は大きな問題であった。
諸々の準備を整え京都に赴いたのは、北垣に会って五ヶ月後の明治14年10月だった。
つづく
(毎週土曜夜更新予定です)