薄野遊郭

緊急事態宣言が解除され、札幌の中心にある歓楽街すすきのも少しずつ活気を取り戻しつつあります。

現在のすすきのは居酒屋・バー・クラブなどが所狭しと立ち並び、日が沈む頃から早朝までネオンが光り輝きます。

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(撮影:すすきの)


そんなすすきのにはかつて「薄野遊郭」がありました。

薄野遊郭があったのは、南4条〜6条通り、西3〜4丁目の田の字型・4ブロックとされています。当時はキツネが飛び跳ねているような原野でした。

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「すすきの」という地名は今から約50年前の1871年(明治4年)8月頃に、開拓判官の岩村通俊が名付けた地名だと言われています。


岩村通俊 Michitoshi_Iwamura

画像:岩村通俊(wikipediaより引用 )  https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Michitoshi_Iwamura.jpg

「すすきの」は住所の地番としては使われておらず、名称としてのみ通用しています。

地名の由来は、開拓監事であった薄井竜之の苗字から一文字とった説や、すすきのがススキ原野であったからという説などいくつかありますが、実際開拓前のすすきの原野はススキではなくカヤが生い茂っていたのではないかとも言われています。

明治以前から北海道の日本海側にある沿岸地域ではニシン漁が盛んでした。

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(写真:道内で現存する最大規模の大鰊漁屋、旧花田家番屋)

活況を見せる漁場には、売女小屋が立ち並んでいたとのことです。

慶応2年から大友堀(現在の創成川の一部)の掘削工事が始まり、石狩から女郎屋が元村(現在の東区)へ移転しました。そこで、<御用女あり>と看板を掲げたのが、札幌初の女郎屋とされています。

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(写真:現在の創成川の一部)

その後、創成川沿いに近い南1条辺りにも淫売屋が点在するようになりましたが、開拓使はそれらを「すすきの」にまとめ、明治4年に「薄野遊郭」を官許として設けました。

”官許”ということは、当時は政府が遊郭を公認していたということです。

なぜ、それほど当時遊郭というものが必要だったのでしょうか。

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(写真:番傘)

この時期の札幌は、開拓使の公募により徐々に人は集まってきていましたが、北海道の厳しい労働環境に耐えられず逃げ出す労働者や、一儲けしたら内地に引き上げてしまう人たちも多く、中々腰が落ち着きませんでした。困り果てた岩村判官は「労働者をつなぎとめるには女の髪しかない」と考え、遊郭の建設に踏み切りました。

そして何もなかった原野に薄野遊郭がつくられたのです。


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