見出し画像

言葉と音楽の現在 〜Amir Slaiman(アミール・スレイマン)〜 [アーティスト紹介]

前回書いたマリカ・ティロリアンの記事が予想外に多くの方に読んでいただけたようで、驚いています。

そんなわけで調子に乗ってまたお気に入りアーティストの記事を書いてみました!

今回のアーティストはアミール・スレイマン(Amir Slaiman)



アミール・スレイマンとは

早速ですが、みなさんはアミール・スレイマンをご存知でしょうか?

ロバート・グラスパーの最新アルバム『Black Radio3』の冒頭の曲「In Tune」で朗読をしているアーティストといえばピンと来る方も多いのではないでしょうか。

この冒頭で詩を朗読しているのがアミール・スレイマンです。
グラスパーのピアノをバックに「だから私たちは音楽を演奏するんじゃない。音楽を祈るんだ(So we don’t play music. We pray music.) 」という語る力強い言葉が印象的ですね。


この存在感、「この人はどんなアーティストなんだろう?」
そんなふうに気になった方も多いのではないでしょうか?

……筆者は正直あんまり気にしてませんでした()

しかしながら、スレイマンが最近出した最新アルバム『You will be someone's ancestor』がかなりすごくて、「なんだこれは!?」と気になって調べてみたら、「この人の存在、かなり面白いのでは?」ってなったのが、この記事を書くことになったきっかけです。

ひとまず表題曲を聴いてみましょう。

このアルバム、簡単に紹介するなら「音楽とスポークン・ワードの融合」というジャンルなんですが、聴いてみてお気づきになった方もいるんじゃないでしょうか?

何がすごいかと言うと、そう、参加しているミュージシャン
このアルバム、全編にわたって、ピアノにロバート・グラスパー、ベースにはデリック・ホッジ、そしてドラムにクリス・デイヴが演奏しているんです。
とんでもないラインナップですよね。
さらに各曲にはミシェル・ンデゲオチェロMaimouna Youssef(Mumu Fresh)D・SmokeLaura Mvula、Drea d'Nurが参加。
このクレジットを見た時点で、これはかなり重要な人なのでは?となりますね。

さらに、よくよく思い返してみると、グラスパーは同アルバムの「Better than I imagine」でもンデゲオチェロのスポークン・ワードを取り入れているし、過去作『Black Radio2』の「Jesus Children」でもMalcolm Jamal Warnerの朗読が入っている。

こういうことを考えたとき、「もしかして、アメリカのブラック・ミュージック界隈で朗読がかなり重要な表現になっているのでは?」と思い当たりました。

とはいえ、このアミール・スレイマン、日本ではまだあまり知られていないうえに英語でさえあんまり情報がないんですよね…。
どうやら元々はラップをやっていたようですが、現在はスポークン・ワード(Spoken Word)というジャンルを主戦場としているようです。
おそらく、ほとんどの方は誰?という感じなのではないでしょうか。あまりに情報が少ない…。

だからといって、こんなに面白そうな人を放っておく手はない!

そんなわけで今回は、スレイマンを中心に据えつつ、アフリカン・アメリカンのコミュニティに見る「言葉と音楽の現在」というテーマで、手探りな記事をお送りしたいと思います。



存在感を増しつつあるポエトリー・スラム(Poetry slam)


「アメリカのブラック・ミュージック界隈で朗読がかなり重要な表現になっているのでは?」

この仮説を考えるうえで手がかりになるのではと思い当たったのがポエトリー・スラム(Poetry slam)という朗読パフォーマンスとの関係です。

ポエトリー・スラム(以下スラム)とは何かというと、シカゴで1984年にはじまったとされる、オーディエンスの前で詩を朗読し、対決をするというパフォーマンス・ジャンルです。
スラムは1984年頃にアメリカの詩人マーク・スミスが「詩を堅苦しいアートや学問の場から大衆の場へと移そうと広めた」らしく、1970年代後半のニューヨーク発祥と言われるヒップホップ文化に強い影響を受けていると言われています。
「詩で対決」ということで、ヒップホップのラップバトル(英語だとBattle rap)とコンセプト的にも近いことが分かるかと思いますが、最大の特徴は音楽にリリックを乗せたラップと違い、バックトラックはなしで、詩人が自身の声のみで音楽的な朗読をするという点かと思います。

さて、このスラム、体感的な話にはなってしまうのですが、どうやら特にこの20年くらい?で世界的に重要な表現の場になってきているようなんですよね。
実際、アメリカを越えてヨーロッパやアフリカでもスラムのイベントや国際大会が定期的に開催されています。日本でもポエトリースラムジャパン(https://note.com/poetryslamjapan/https://twitter.com/poetryslamjapan?s=21&t=-jgjXCReDv3ROgSB74nOPA)という団体もあり、大会も開かれているようです。

こちらは2016年に行われた世界大会の決勝の様子。
この年の優勝者はケベック出身のアメリー・プレヴォー(Amélie Prévost)だったのですが、フランス語の朗読だったので、ここでは英語のスラムを挙げておきます。2022年の優勝者もイタリア人でしたし、他の優勝者の出身もスペイン、スコットランド、ノルウェーと、言語的にも出身的にもかなり国際的なことが伺えます。

ちなみに、筆者は以前、フランス語圏カリブ海マルティニック島出身のスラム詩人ジュリアン・デルメールにお会いしたことがあるのですが、その時、彼はラップとの違いについて、「音楽から自由になることで、さらに音楽的にも自由なパフォーマンスができる」という趣旨のことを言っていました。

バックトラックはなくとも、たしかな音楽性を感じることがおわかりいただけるかと思います。

ポエトリー・スラム自体は比較的ミクスチャーな文化と言えるかもしれません。
しかし、ラップが世界中に広まり確かなプレゼンスを持ったと言える現代で、こういったラップとは異なる言葉と音楽との関係を結ぶスラムが広まりをみせている、あるいは、ラップとの関係とは異なる言葉との関係をアーティストたちが求めているとしたら、スレイマンとグラスパーがやっていることは、何か新しい動向であるとは考えられないでしょうか?



アフリカン・アメリカンのコミュニティにおける「詩と音楽の現在」

こういった「語り」の楽曲内での採用について、グラスパーはインタビューのなかでこんな風に言っています。

俺は音楽をバックに語りが入るときの、その質感が好きなんだ。どんなにディープなことを歌っていても、歌だとそのメッセージが伝わりづらかったりする。でも、スポークンワードだとみんな言葉に耳を傾けるだろ? メロディを歌っていないだけで言葉が直に入ってくる。ニーナ・シモンがプロテストの手段として使っていた理由もそこなんだ。スティーヴィー・ワンダーもそうだよね。だから、特に重要なことを伝えたいときにこの手法を使うんだよ。「この言葉をしっかり聞いてほしい。理解できないかもしれないし、見落とすこともあるかもしれない。それでも聞いてみてほしい」ってことだね。

「ロバート・グラスパーが語る、歴史を塗り替えた『Black Radio』の普遍性」
Mitsutaka Nagira
Rolling Stone Japan
https://rollingstonejapan.com/articles/detail/37539/4/1/1

ここでは「特に伝えたいメッセージを伝えるため」と言う言い方をしており、とりわけ「In Tune」はアルバムの一曲目に置かれていることからも、アルバム全体の方向性を示すメッセージを伝える役割にもなっていると考えられます。
また、ニーナ・シモンやスティーヴィー・ワンダーの名前を挙げているように、アフリカン・アメリカンの表現にとって歴史的な手法であるとも言えそうです。このあたりも、アフリカン・アメリカンの文化と歴史に意識的なグラスパーにとって大きな意味がありそうです。

しかし、この記事で個人的に特に注目したいのは、この語りが、歌やラップとは違う感触で、音楽との関係を作っているように思える点です。
実際に楽曲を聴いてみても、歌やラップとは異なるものの、どちらかがオマケになることは決してなく、一体となって楽曲をかたちづくっているような気がします。

この点、そして「In Tune」のメッセージ性についてはヒロ・ホンシュクさんがこちらの記事で解説しています。

アメリカ社会との問題にも触れつつ楽曲の分析もしているので、ぜひリンクから読ん見てください。朗読と音楽が相互に高めあっていることが伝わるかと思います。

ちなみに、グラスパー以外にも、例えばニューヨーク・ハーレムのジャズシーンで重要なヴィブラフォン奏者ジョエル・ロスも自身のプロジェクト『Being A Young Black Man』で大々的にスポークン・ワードを取り入れています。(4:25あたりから朗読が入ります)

プロジェクトの名前を示すような高いメッセージ性とともに、グラスパーとスレイマンの場合とはまた違った音楽との独特な関係を築いているように感じます(こちらもいつか考えてみたい)

さらに、この仮説を裏付けるかのように、次回、2023年度からグラミー賞にNew Best Spoken Word Poetry Albumというジャンルが新設されていることにも触れておきたいところ。
英語が得意な方はリンクの記事で詳しい解説をご参照して頂きたいのですが、要約すると、「拡大しつつあるスポークン・ワードと詩のコミュニティの要請に応えて」とのことです。(ちなみにBest Spoken Word Albumという部門自体は1959年からありました。)

この部門には、スレイマンの『You will be someone's ancestor』もノミネートされており、さらに他のノミネートを見ても、すべて音楽と朗読でレコーディングされています。この意味で重要そうなのは、上記Black Radio2』に参加しているMalcolm Jamal Warnerの『Hiding In Plain View』と、J. Ivyの『The Poet Who Sat By The Door』でしょうか(J. Ivyについてはこちらにレビューしている方がいました:https://note.com/cplyosuke/n/ncb4fcf318575)。

さらに注目したいのが、ノミネートされている全員がアフリカン・アメリカンのアーティストであること。例えば、詩人Ethelbert Millerの『Black Men Are Precious』は名前からもメッセージが明らかですし、Amanda Gormanもアメリカ社会における黒人女性の目線からの詩作が注目されている詩人です。
こうしたラインナップを見るだけでも、このスポークン・ワードというジャンルがアメリカ全体で、そして特にアフリカン・アメリカンのコミュニティで注目されていることが伺えます。



再びスレイマン、『You will be someone's ancestor』

ここで再びスレイマンに戻って、彼の参加している楽曲のなかで、言葉と音楽の関係がこれまでのものと比べてどういったものになっているか聴いてみましょう。

アフリカン・アメリカン・ミュージックの中で、これまで言葉は「ラップや歌唱というかたちをとってグルーヴと一体となっていた」と言えるように思います。
一方で、スレイマンのスポークン・ワードはおおざっぱに言ってしまうと、音楽にそれとは異なる独特の質感や響き、グルーヴからの解放のようなものを与えていると言えるように思います。

実際、「In Tune」や最初に挙げた「You will be someone's ancestor」でも言えることなんですが、音楽的には、アフリカン・アメリカンの音楽で特徴的な2・4のバックビートに重心があるグルーヴを封印して、1・3のフォアビートより、あるいはむしろ重心を確定させない独特の浮遊感を出しているように思います。
このへんはまさにヒロさんが解説していることにも通じるのではないでしょうか。
特に「You will be someone's ancestor」では最後のドラムが一瞬わずかにバックビートを感じさせますが、それもすぐにずらされてしまいます。

他の曲にも目を向けてみると、例えば「What Does Love Make?」でも音楽はフォアビートよりの重心になっていることが分かります。

一方で「Close to the Sun」ではクリス・デイヴのドラムはバックビートに重心を落として叩いていますが、ホッジのベースは比較的バックビートを意識したものではなく中立的(?)、さらに背景に聴こえるグラスパーのピアノやンデゲオチェロのコーラスはグルーヴではなく空間や光のようなものを表現しているように感じられます。
クリス・デイヴのスネアについても、実は二種類の音を使い分けていて距離感を調節してたりするんですよね。

他にも「Yes to the Sky」では、冒頭でピアノと朗読の浮遊感→ドラムが入ってからは2・4系の重心のグルーヴにスレイマンがラップに近い感触を感じさせる朗読を乗せつつ、むしろラッパーのD・Smokeがいつもより朗読に近いアプローチ→Mumu Freshがいつもより歌唱に近いアプローチ、という不思議な構造をしています。
これはまさにラップと歌唱、朗読の中間的(?)な曲と言えるかも。


あるいは、詩のメッセージ性というところに注目すれば、スレイマンはムスリム(イスラム教徒)らしく、ゴスペル馴染み深いチャーチ出身のミュージシャンが活躍するイメージが強いアフリカン・アメリカンのコミュニティのなかでは比較的珍しい背景を持っていると言えます(そもそもイスラム教と音楽の関係がキリスト教とは違った方向でかなり複雑なのですが…)。
例えば「Joy in the morning」というタイトルだけ見ればキリスト教的な曲も、実際はイスラム教的な要素が大きいんですよね。

これは他の楽曲についても言えることで、実際に詩を見ると、クアルーン(コーラン)からの引用があったり、キリストの名前も聖書からの言葉もクリスチャンとは違う文脈での引用の仕方をしている。
おそらくイスラム教的な解釈なのかなとは思いますが、スレイマンの詩はその中でも正直かなり攻めたものになっているような気がするんですよね。このへんはもっと詳しい専門家のご意見をお伺いしたいところ。

つらつらと書いてみましたが、ともあれ、このようにグラスパーはスレイマンとの共演では、演奏や音楽のスタイルをかなり変えてきている
グラスパーは「Black Superhero」で「すべてのコミュニティにブラック・スーパーヒーローとなれる存在が必要だ」と歌いましたが、もしかしたらアミール・スレイマンと彼のスポークン・ワードを取り入れることで、アフリカン・アメリカンの音楽そのものと、それが守る範囲を広げようとしている…のかもしれません。


おわりに

というわけで。

これまでアフリカン・アメリカンの音楽では、キリスト教の神への祈りを歌ったゴスペルや、より世俗的な歌詞を音楽に乗せて歌ったブルースやソウル、R&B、リリックをトラックに乗せて届けていたヒップホップといった言葉と音楽の関係がありました。そして、グラスパーに代表される界隈は、それらを統合しつつ、一歩先に進めるような野心を持っていたように思います。

しかしながら、アミール・スレイマンのアルバムを聴くと、アフリカン・アメリカンのコミュニティにおいて、言葉と音楽の関係はスポークン・ワードというスタイルを吸収してさらに新たな姿を模索しているのではないでしょうか。
それは言葉と音楽の関係のさらなる自由とメッセージ性を追求しているのかもしれないし、あるいはまったく別の質感をもった何かになるのかもしれません。

このテーマについてはあまり情報が見つからず、今回の記事ではスレイマンとスラムの関係、クアルーンとの関係、スラムとアフリカン・アメリカン・コミュニティとの関係まで深く切り込むことはできませんでした。
言葉と音楽がハーモニーであったりグルーヴの面でどのように影響しあっているのかということについても、もっと具体的に見ていけるようにならないとな…というところではあります。

しかし、こうした流れがどこに向かうのか個人的に非常に興味があるなーということで今回は書いてみました。
「これはこういうことじゃない?」などご意見・感想等あれば、ぜひ教えて下さい。

ここから先は

0字

¥ 150

面白かったら投げ銭をいただけると励みになります〜。 記事につかえる時間が増えて、さらに切り込んだ内容にできる…はず。