8月19日のお話
「時間、生物学会?」
お盆休みあけ早々2021年8月19日。朝一に呼び出された企画会議で、皆塚カリノは不思議なものを見るような目で企画書を眺めました。
「そうです。最近話題の、時計遺伝子に着目したシャンプーについて記事化できないかなと思って。」
「シャンプー?」
なんでそんな女性誌みたいな企画、と出かかった言葉を慌てて飲み込み、カリノは企画書をめくりました。そこには高級サロンの写真と、そこで提供されているシャンプーの商品写真が続いています。写真のサイズが大きい企画書もまさに女性誌の企画です。
カリノの所属している編集部は基本的には科学技術・文芸学術分野が専門です。いつも企画書はword文書でかかれ、写真は分析図や色のセンスのないグラフばかりです。
新しく来た編集長は女性誌出身らしいよ?と先週先輩に耳打ちされたのを思い出しました。
一応取材先は学術団体ですが、フォーカスするのは高級シャンプーというミスマッチに、カリノは心の中で頭を抱えました。
「これ、そのシャンプー。一瓶で5,000円よ。」
そう編集長に渡されたシャンプーを受け取った瞬間、自分がこの企画を受けることを承諾したことになると気づき、シャンプーを手から離したくなりましたが、値段を聞いた瞬間に”粗末にできない”という感情がむしろ逆の行動、つまりシャンプーを抱き抱えるという動きになってしまいました。
「これじゃ私が、高級シャンプーに釣られたみたいじゃない」
編集長が会議室から出て行ったのを見計らい、カリノはそうひとりごちました。
シャンプーの資料には、時計遺伝子に働きかける、という記述が繰り返し登場しています。カリノは時計遺伝子という言葉は以前から知っていましたが、具体的にどういうものなのか、シャンプーに含まれるだけで遺伝子レベルに働き掛けられるものなのかと疑問で一杯になりました。
時計遺伝子とは、と改めて資料を読み返し、メモを取りながら記事にするための説明文を引用します。
時計遺伝子とは、概日リズム(約24時間周期で変動する生理現象で、動物、植物、菌類、藻類などほとんどの生物に存在しているもの。)の発生に必要な遺伝子の一群を指す。概日リズムは、一般的に体内時計とも言う。厳密な意味では、概日リズムは内在的に形成されるものであるが、光や温度、食事など外界からの刺激によって修正される。
最近、40歳前後から発症することが多いと報告されている睡眠相前進症候群についての記事をどこかで読んだことがある、と思い出しながら、カリノはそこに記載のある40歳という年齢に間も無く差し掛かろうとしている自分の立ち位置に一瞬ヒヤリとしました。
患者は夕方になると強い眠気を覚え起きていられず、20時前には入眠する。そして、早朝2-3時頃には覚醒してしまい、その後再入眠することができない。就業時間中は覚醒していることができるので、深刻な社会適応の問題が起こることは少ないが、夕方からの社会生活に支障が生じる。生体リズムの過剰な前進による病態であり、就寝前に高照度光を用いて生体リズムを遅らせることで症状が改善する。朝の一定時刻までサングラスなどを用いて太陽光を避けるのも有用である。
この厚生労働省の説明文を読んだ時、深刻な社会問題にはならなくても、何かが狂ったままの状況が長く続くことは決して健全なことではないのに。と、あまり問題視されていないような風潮に違和感を覚えたのも、資料を探している時に思い出しました。
カリノ自身が不規則な生活をしている引目もあり、とりあえず、”顕在化しない社会問題への警笛をならす学術的アプローチの仕事”と自分を納得させながら、シャンプーを持って帰宅します。
何か変わるものなのか、と、帰宅後、早速シャワーを浴びる時に使ってみましたが、香りがリゾートっぽくて華やかなこと以外、あまり実感は湧きません。そもそも遺伝子レベルへの変化というものを実感すると言うのも無理な話です。
とりあえず、学会へアポイントをとり、こういう商品についての見解をもらおう。そんなことを考えながら、とりあえずメールだけ送信しておいて、今日は早く寝よう、とカリノは眠りにつきました。
明け方の4時頃、いつもより早く目が覚めたカリノは、メールの新着を知らせるアイコンをスマホの中に見つけました。なんとなく予感していた通り、それは先ほどメールを送った時間生物学会からの返信でした。
どうやら返信をしてきてくれたのは、事務局ではなく事務局を兼務している若手の研究者のようでした。
「学者って、そうなのよね。睡眠時間を取らないと健康に悪いということを証明するような仕事をしていても、自分は意外と不規則だったりする。」
そう呟いて、メールを開くと、簡潔な文章でこんなことが書いてありました。
「そういう商品についてのコメントは控えさせていただいております。しかし、その成分の効果如何は別にして、そのシャンプーはユーザーの健康の一助になっていると私は考えます。」
どういうこと?と怪訝な顔をして、ベッドから起き上がってスマホを持ち直すと、彼女は続きを読み進めました。
「普段は大変マイナーな時計遺伝子という言葉を世に出して、そういう業界から一番遠そうな女性たち(特に商品を拝見しますと40代以上の経済力のある方がターゲットのようですね)に届けている。きっと、あなたやこの企画を作ってくださった会社の方のように、そういう人は必ず時計遺伝子は何かをWEBサイトで調べるでしょう。そして、調べるうちに、概日リズムのこと、それが狂う病のことを知り、気を付けるようになるのではないでしょうか。それだけで、十分、そのシャンプーは役割を果たしているように思えます。
ご希望通りの回答ができず、お役に立てないことは申し訳ありません。」
カリノは、最後までメールを読むと、フゥッとベッドに倒れ込みました。外はうっすら明るくなっていますが、ベッドに倒れ込むと、再び眠たくなりました。そういう現象を鑑みて、「私は睡眠相前進症候群ではなさそうね」と安心しながら再び眠りにつきました。
朝、どうしたものかと思いながら出社してみると、編集長がスレ違いざまにカリノの髪の香りに気づき「使ったのね!どうだった?」と話しかけてきました。
「あの、編集長。」
やっぱりこれは、うちの企画じゃないですよ。そう言いたくて振り返ったのですが、みょうに艶やかで女らしい髪の毛を横に流している編集長のキラキラした笑顔を目の前に、カリノは再び言葉を飲み込みました。
「シャンプー、時計遺伝子、面白いですね。」
学会からの取材を断られたことすら言えず、カリノは当たり障りのない返答をしながら微笑み返します。こうなったら、なんとかこの素材でそれっぽい記事を書かなければいけません。シャンプーと言わず、時計遺伝子に働き掛ける成分の方にフォーカスするか、もしくは時計遺伝子の社会ニーズに振り切るか。社会ニーズの方にするなら、コンノ先輩にも相談したいところです。
「5,000円のシャンプーの代償は大きい。」
ガックリと肩を落としながら、カリノは大きなため息をつきました。
着想:サルバドール・ダリ「記憶の固執」