11月4日のお話
バーカウンターに壮年の男が一人座っている。目の前にはウイスキーのロックグラス。バーのマスターは女性。くたびれ気味の男よりも幾分か若く溌剌とした印象。店内には二人だけ。カウンターの中の女性マスターは、グラスを拭きながら会話の相手をしている。
男「何もない人生って、どうなんですかね。」
女「どうって?」
男「いや、どうなのかなぁって。」
女「どうって?」
男「うん、どうなのかな。」
女「うーん?どうなんだろう。」
男「何か、これまで仕事であったことを発表しなきゃいけないんですよ。会社で。」
女「会社で?」
男「会社で。そういう、なんか社員教育みたいなアレで。」
女「仕事であったこと?」
男「そう。仕事であったこと。」
女「うん。」
男「うん、仕事で大切にしていることとか、仕事のやり方とか。」
女「うん?」
男「部下とかのためになることで。エピソードを添えて、とか言われてて。」
女「へぇ。山岸さんの?」
山岸「そう。でも、何もないんですよ。考えたんだけど。」
女「何もないの?」
山岸「ええ。何もない、人生。」
女「いや、仕事でないだけで、人生まで何もないわけじゃないでしょ。」
山岸「あぁ、まぁ、そうですね。じゃあ、何もない仕事人生。」
女「仕事人生!」
山岸「そう。」
女「でも、何もない仕事人生って、なんか恵まれてる気もするわよね。何もトラブルのない仕事人生。ほら、最高。」
山岸「いや、トラブルはあるんですよ。クレームもらったりとか。」
女「あぁ、まぁ、そうよね。」
山岸「誰かに誇れることとか、こうした方が良いと教えられることとか、そういうのがないのかな。具体的にと言われても困ってしまって。」
女「ふむ。」
山岸「誰かのためになりたいとか、相談に乗ってあげたいとかは、思っているんだけど。」
女「相談に乗ってあげたこととかないの?」
山岸「いや、あるんですが。」
女「そこで何かなかったの?」
山岸「…。ない、んですよね。」
女「ないの?相談に乗っていたのに?」
山岸「うーん。ない、かなぁ。」
女「へえ。」
山岸「…やっぱり、ダメですかね。変ですよね。この歳で。」
女「いや、ダメとかじゃないけど。あれ、山岸さんおいくつでしたっけ。」
山岸「あ、えっと、54歳です。」
女「へぇ。」
山岸「やっぱり、あれですよね。この歳にもなって。」
女「いえ、何も言ってませんよ。山岸さん、私より15歳も上ですね。」
山岸「え?カリノさん、そんな若かったの。」
カリノ「え、なんですかそれ。」
山岸「あ、いや。」
カリノ「いくつだと思ってたんですか。」
山岸「いや、その。まぁ、そう言われるとそうかもと思うけど。」
カリノ「え、同世代くらいだと思ってたってことですか。急にタメ口になるし。」
山岸「いやいやいやいや。そんなことは。いや、すみません。」
カリノ「まあ、生意気ですからね。私。」
山岸「そうそう。フランクだし、しっかりしているし。外見がじゃなくてね」
カリノ「もういいよ。生意気を否定してないし。」
山岸「すみません。」
カリノ「希少価値ありますよね、山岸さん。」
山岸「え?何?」
カリノ「特に私たちの世代では。」
山岸「希少価値?」
カリノ「そう。」
山岸「希少価値。」
カリノ「これまで何もなかった、っていう人。同世代では、みたことないなぁ。」
山岸「世代、なんですかね。」
カリノ「世代はあると思うよ。私たち、ことあるごとに“それで?君は何したいの?WILLは?”って聞かれてきたから。社会の流行的に。」
山岸「ああ、今日話した会社の子も、そんなことを言ってたな。他の人に。」
カリノ「私たちはそれに慣れてるんだけどね。時代がそうなったから余計。」
山岸「時代か。」
カリノ「そう。時代。今はそういう時代。」
山岸「時代遅れになっている世代ってことか、僕は。」
カリノ「山岸さんの世代みんなが時代遅れってわけじゃないと思うけどね。」
山岸「厳しいね、カリノさん。」
カリノ「事実よ。」
山岸「そうだろうね。」
カリノ「レアですから、そのレアさを売りにすればいいんじゃないのかな。」
山岸「レアさ?」
カリノ「そう。私の世代も、自分がどうしたいとか、そのためにどうするのとか、散々考えさせられてるけど、同世代の子みんなが考えられているかというと、そうじゃないのよね。」
山岸「ああ、まあ、そうだろうね。」
カリノ「だけど大多数がそうだから、そうじゃない子は肩身が狭いのよ。そうこうしているうちに、誰にも共感して貰えなくなって、いよいよどうしたらいいかわからなくなる。」
山岸「うん。」
カリノ「そういう子に向けた、ニッチなロールモデルになるのはどう?」
山岸「え?」
カリノ「54歳から“誰かに誇れる何か”を見つける方法」
山岸「ん?」
カリノ「いや、そういうタイトルの本書けそうじゃない?」
山岸「え?」
カリノ「これまでの仕事人生およそ30年で見つけられなかったなら、後半の30年で見つければいいんじゃないの?」
山岸「30年?」
カリノ「え、大卒って22歳からですよね。あぁ、じゃあ32年。」
山岸「いや、後半の方…。」
カリノ「ああ、後半ね、80歳くらいまで働くでしょ。今の時代。」
山岸「えー、僕は60歳でいいよ。」
カリノ「いや、いい悪いじゃなくて、今の時代80歳まで働くのよ。」
山岸「はあ。」
カリノ「世界にどのくらいいるかわからないけど、山岸さんみたいな人。でも全くいないわけじゃないから、そういう人に向けて、成功事例を示す人になればいいと思うよ。」
山岸「成功事例。」
カリノ「そう。せっかくここまで何もないっていうのを貫いてきたんだから、後半戦でゼロスタートしても人生満更でもない感じになるって示す良いチャンスじゃない。」
山岸「ゼロスタート、ですか。」
カリノ「そう。ゼロスタート。」
山岸「まあ、そうですね。」
カリノ「そうよ。大抵の部下にはささらないと思うけど、その発表。」
山岸「そう、でしょうね。」
カリノ「でも、格好つけたいわけじゃないでしょ。山岸さん。」
山岸「まあ、はい。」
カリノ「じゃあ、対象をそういう人だと明言して発表すれば良いじゃない。」
山岸「対象を、明言。」
カリノ「そう。あなたたちの周りにそういう人がいたら、伝えてほしい。って。」
山岸「そういう人が。」
カリノ「僕は今日から“誰かに誇れる何か”を一年に3つ以上見つけられるように、仕事に取り組みます。そういう僕をみていてください。そして成し遂げられたら、54歳からでも遅くはないというメッセージを受け取って、あなた自身も始めてみて欲しい。」
山岸「はあ」
カリノ「とかいうの。あ、なんかちょっとかっこつけすぎかな。」
山岸「まあ、僕は、言えないかもしれませんが。」
カリノ「あはは。まあ、言えなくてもいいけど。そういうこと。」
山岸「なるほど。そうですね。」
カリノ「そうそう。だって、今までないのはもう仕方ないもの。」
山岸「そうですね。」
カリノ「大滑りするかもしれないけど。でも、滑っても、“誰かに誇れる何か”を見つけられたら、山岸さんがね。そうしたら、宣言した意味はあるでしょ。」
山岸「まあ、そうなのかな。」
カリノ「そうそう。あ、ほら、お酒、進んでないよ。」
山岸「あ、ああ。」
カリノ「私と会話したんだから、その分飲む。飲んで、お金を払ってよ。」
山岸「あぁ、そうですね。確かに。」
カリノ「いや、そこつっこむところ。」
山岸「まあでも事実ですね。カリノさんとの会話は高いから。」
カリノ「人から言われるとなんか違うのよね。」
山岸「何もないっていうのが、誰かの役に立つんですかね。」
カリノ「何もないだけじゃ役にたたないわよ。」
山岸「あ、そうですね。」
カリノ「何もなかった人が、変化する物語に、人は興味を示すのよ。」
扉が開くカウベルの軽やかな音がなる
カリノ「あ、いらっしゃいませ。ようこそ、魔法使いの弟子のバーへ。」
Fin.
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