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11月1日のお話

人間には、様々な試練が与えられます。世に名の通った神様によると、その人が超えられない試練は無いそうで、神様から与えられたものはその人が必ず乗り越えられるものだそうです。

しかしこれは、どうでしょうか。神様の見込み違いだったということも、稀にあるかもしれません。その時は乗り越えたように見せかけているだけで、実はその後も長い間尾を引く試練もあるのではないでしょうか。そもそも乗り越えるという事象の定義から曖昧です。乗り越えるという事象に、痛みに慣れるということや、胸の疼きが日常化すること、強制的に忘れ去ることも含まれるとすれば、「誰もが乗り越えられないことはない」と言えるかもしれません。

「でも、それって乗り越えたことになるのかな。」

「え?何が?」

「あ、ううん。なんでもない。」

思考していたことが突如として口をついて出てしまう。そういう癖がある海南絵は、慌てて笑顔を取り繕いました。「また考え事か?」と、茶化しつつもそれ以上聞いてこない彼氏・明彦。彼のそういうところが好き。海南絵は改めてそんなことをと感じながら思いました。そういう人じゃなければ今の幸せはない。大袈裟ではなくそう思っている海南絵ですが、心の中には、実は、忘れられない恋の疼きを燻らせていました。

JR東中野駅に直結している商業施設にあるカフェの窓際の席。ここは海南絵のお気に入りの場所でした。夕方、この時間になると目の前に伸びる中央線の線路の(カフェは駅の上にあるので、真下を電車が通過しています)向こう側に、ちょうど夕日が落ちていくのです。西向きのこの窓は、夕日を真正面に楽しむことができる素敵な場所でした。

まっすぐ帰宅する気分にならない今日のような日は、海南絵はこのカフェに寄って読書をするのですが、彼女がカフェに着いたときに、明彦が「今夜会えない?」と連絡をよこしたので、ここで待ち合わせるなったのでした。

待ち合わせて、陽が沈むまでお茶をして。暗くなる頃には明彦とともに海南絵の家に帰ることになるのでしょう。部屋は特に汚して居ないし、明彦も何度も訪れているので、突然の訪問でも、もう緊張することも無くなりました。今夜は手料理を振る舞うのは疲れるから、何かを途中で買って帰ろうか。「待ってるね」とメッセージを打ちながら、そんなことを考えます。こうして二人の日常は普通に混ざり合い、きっと、何年か先には、この人と結婚したりするようになるのかもしれない。海南絵は待ち合わせの約束を交わすLINEの最中、そんなことをぼんやりと考えて居ました。

ところが。
「換気をさせていただきます」と、カフェの店員が海南絵の席の窓を開けていった瞬間、吹き込んできた風に明彦への想いは攫われるように消え去りました。

代わりに風に乗って海南絵に届けられたのは、秋のひんやりとした空気の懐かしい香りでした。金木犀と、秋の落ち葉と、都会のアスファルトの香りが混ざった独特のそれは、海南絵の脳の大脳辺縁系に直接届くと、“あの頃”の記憶を呼び起こします。

あの頃。
それはもう10年以上も前のことです。まだ20代だった海南絵には、情熱的な愛を交わしたバンドマン志望の彼氏が居ました。その彼との出会いは恋愛ドラマの定番設定そのもので、バイトとして入ってきた彼に先輩社員として仕事を教えているうちに自然と惹かれあっていく。そんな風に恋に落ちていきました。彼のバンドが出演するライブに行くたびに、彼の歌声に惚れ込み、彼女兼ファンという立場から、ファンクラブの事務を手伝いはじめ、ライブをサポートするようになりました。少しずつ売れ始めてきた彼がバイトを辞めて、海南絵が仕事の傍らバンドのマネージャーを担うまで、そんなに時間がかかりませんでした。

急展開で恋に落ちた二人は、どうしたら二人の共有の時間を増やせるかを考えて夢中になり、仕事を一緒にするだけでは飽き足らず、同棲までしてお互いを求め続けたのです。

しかし二人は、ある時から求め続けることに疲れを感じ始めます。それは、求めても求めても満たされず、むしろ、求めれば求めるほど、どうしようもなく埋められない二人の間の距離を感じてしまう。そんな現実を突きつけられたような感覚でした。

そうしていつしか海南絵と彼は、自分の求めに応じてくれない相手の粗ばかり見てしまうようになっていきました。

「私はこんなにあなたのことを考えているのに。」

「俺は君のためを思って。」

「どうしてあなたは、私がして欲しいことをしてくれないの?」

「俺はそんなことして欲しい訳じゃない。俺が欲しいのはもっと、、」

彼がバンドのファンの子と浮気をしたのは、ちょうどそんな時期でした。

あんなに運命のように惹かれあったのに。
その事実を他のバンド仲間から知らされた時、海南絵の中で何かがぷつりと切れてしまいました。それが、こんな風の香りがする、秋の深まった季節だったのです。浮気は本気ではないと反省する彼に対して向けた笑顔は、その時期に海南絵が作った、一番優しい笑顔でした。

「謝らないで。浮気させてしまったのは、私にも原因があることだから。」

それだけを言うと、海南絵は彼と暮らしていたマンションを出ていきました。連絡先は消しませんでしたが、出て行ってから、彼から連絡が来ることはありませんでした。海南絵も自分から連絡することができず、いつしか時は10年も過ぎて居たのです。

それから明彦に出会うまでに、いくつかの恋らしき感情はありましたが、どれも気のせいかもしれないと思えてしまうくらいのものばかり。明彦とも、あの頃のように強烈に惹かれ合うような感情になったことはありませんでした。ただ、穏やかな時間を過ごせる相手として、明彦が海南絵の隣にいる彼氏になった。そういう感覚です。

さて、話を冒頭に戻しましょう。

海南絵は秋風と夕日が思い出させてくれたあの頃を振り返りながら、考えました。あの頃は、燃え上がるような幸せに喜びを感じる一方で、いつも心を焦がすような満たされない思いを感じていたように思います。
満たされない思いは、言い換えると「孤独」との対峙だったかもしれません。二人ひとつになりたいくらいに愛してしまったが故に、ひとつになれない現実がお互いの孤独を浮き彫りにしたのです。
人は人として生まれた以上、誰かとひとつになることなんてできない、孤独な存在であることは仕方のないことです。けれど、それに気づかずに暮らしていくこともできます。優しい家族と、温かい友達、理解ある伴侶に支えてもらっていたら、きっと孤独なんて感じないかもしれません。

しかし、恋に落ちるとそうはいきません。まるで試練のように、孤独をまざまざと見せつけられるそれは「恋に落ちた瞬間から孤独と対峙する試練」とでも言いましょうか。そういうものが、本当の恋に落ちてしまった人には訪れるのかもしれません。

世に名の通った神様によると、その人が超えられない試練は無いそうで、神様から与えられたものはその人が必ず乗り越えられるものだそうです。しかし恋に関するこの試練は、多くの場合、乗り越えるのではない結末を迎えている気がする。海南絵は自分の心を見つめ直し、そう思ったのです。

彼との愛を育むほどの力がなかった海南絵は、孤独に対峙する試練に向き合うことをやめ、逃げ出しました。その試練は、当時の海南絵には、乗り越えられない試練だったのです。
その時から、海南絵の恋はいつも「本気になる前に終わらせる」か「気持ちを閉ざす」か、そう言う類のものになりました。そして、乗り越えられずにそのままにした試練はいつまでも海南絵につきまといます。

この試練は、超えるまでずっと逃れられないのだろうか。そんなことを考えて、海南絵は再び窓の外の夕日に視線を移しました。明彦が到着してから15分ほどしか経っていませんが、もう目の前の景色はずいぶん暗くなり、夕日も残りわずかな光が地平線から漏れている程度になっています。そろそろ夕暮れの時間は終わりです。

晩御飯をどうするか、相談しないと。隣でコーヒーを飲み干しながらスマホを見ている明彦のことを考えようと夕日から目を背けます。目を背けたかったのは、夕日だけでなく、彼のことを考えた時、いつも最後に思ってしまう気持ちでもありました。

「もう一度、あなたに会いたい。」

例え隣に、別に愛するべき人がいたとしても、海南絵はいつもそう思ってしまうのです。毎年、金木犀が咲く、紅葉が色づく秋の夕日が訪れるたびに。


着想 Magritte, Rene (1898-1967) - 1958 The Banquet (Art Institute of Chicago)

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