「本記事より、わたくし改名いたします!」〜「私」がゴッホを目指す理由〜
書こうと思ったのが2020年2月8日。
……だったようだけど。
実際に書いたの2024年10月(公開は9日)です。
双極性障害と共存しつつ、「自分」という「個」をいかに楽しんで生きるか?
そんなことを考えたり考えなかったりしながら、日々なんとなく生きてはいけてる「私」です。
――で、「私」はnoteでは「松本」と名乗っていますが、あんまり使っていません。
今回は、「わたし、かいめいする!」という宣言……宣言?ご報告?です。
「現状で名前使ってないのに、改名?そんじゃ困ることもないだろ。そんなもん勝手にせい」と、思われるかもしれません。
が――ちょっと、聞いてほしいんです。
先日書いた記事の中で、100歳まで生き抜いたおじいちゃんの話をした。
その中で、「おじいちゃん(享年100歳)との会話を振り返る機会があった」と書いたんだけど……。
それが、今「あなた」に読んでもらってる「この記事」!――を、書いてる時だったの!!
だから、書き上がったのはこっちのが早かった。
でも、「すぐに公開するのは……やめとこ……」と思っていた。
まだ先は長いので、実際には分からないけど。
現時点で「私」の人生における「宿敵ポジション」を埋めている、実の祖母。
この人のことも、書いているから。
(▼祖母がどういう人か、の参考記事)
そもそも激情家の「私」にとって、宿敵とのエピソードって無理なのだ。それだけで、冷静さを失ってしまう。
たとえ、祖母はもう、この世の人間でないとしても。
だけど今ね、「双極性障害でも叶えられる!そういう自己実現法、つくろう!」って動いてるところだから。
▼詳細はこちら
「今」の自分、「未来」の自分のために、「過去」とも向き合わなくちゃいけないなって。
だから、note開設してから現在までの空白の4年間を振り返ったり、「自分」の人生について考えてみたりもしてる。
「……ん?改名するって話じゃなかった?」
はい、そうです……。(神妙そうな顔)
なので、それをこれから書いていきます……。
「私」と「宿敵」*と「おじいちゃん」
*一般的には「祖母」
3歳でママを失った「私」とパパは、パパの実家で祖父母と共に暮らすことになった。
祖母との記憶は、もうほぼほぼ「戦闘」しかない。
成長するにつれて、生意気な口(笑)をきくようになったせいか?
祖母からしたら、「私」は「孫」じゃなくなっていたんだろうな、とすら思う。もはや敵。
でも「私」にとっても敵どころか「宿敵」だから、逆に安心してほしい(?)
それに、「私」は今でも、当時の戦うことを選んだ「自分」が間違ってたとは、決して思わない。
「私」が(おそらくだけど)祖母から「敵」認定されたのは、生意気な口(笑)を叩くようになったから――と、当時はパパですら思っていたらしい。
▼「捻くれ者」にすら「聖人」と呼ばれるパパなのに
つい先日まで、パパは「知らなかった」と言う。
おじいちゃんと祖母の喧嘩は、食卓がひっくり返るのは当たり前。
包丁もしょっちゅう出てきた。
「家を燃してやる!」とか言うセリフが、毎日のように飛び交っていた。
そういうことを、知らなかったと。
なのに、「私」が生意気(笑)だったから。
「だから祖母と揉めるんだ」と思ってたんだ……と思ったら――。
つい、「はァ〜?(笑)」と言ってしまった。
「今の子どもの、それも女の子のお弁当なんて、おじいちゃん分かんなくてなぁ。ごめんなぁ」と言いながらも、おじいちゃんはお弁当を作ってくれた。
祖母は、黙々と作業するおじいちゃんの隣で、「彩りが」とか「バランスが」とか文句を言うだけ言って、作ることはしなかった。
でも、そんなの序の口で。
もっとひどいことがあった。
私が、喘息のひどい発作を起こした時のことだ。
小学生だった。
「私」を見殺しにしようとした祖母(宿敵)
確か、前日の夜中(多分、日曜日だった)にも発作を起こしていて、パパが車で夜間救急へ連れて行ってくれた。
で、「朝になったら、かかりつけの病院へ行ってくださいね」って話になっていた。
だけど、パパは仕事で。
この当時は、もう『闘え!サラリーマン』状態だった。
▼ケツメイシの『闘え!サラリーマン』みんな聴いて!元気爆盛りソング!
しかも、家から会社まで、そもそも遠かった。
平日は毎日5時には家を出て、帰宅は大体、0時を過ぎるって生活。『闘え!サラリーマン』すぎる。
ただ、パパが家を出る時に「やっぱり、まだちょっと具合悪そうだな」って感じだったのよ。
だから、「病院、連れてってやって」と、おじいちゃんに言付けてから家を出た。
その背中を、覚えている。
喉の奥から、ヒュー……って音がし始めていた。
正直、心細かった。
それから、時間が経つごとに、どんどん苦しくなっていった。
苦しいから息を吸いたいのに、喉が焼けたように熱くて、痛い。吸ってるはずなのに、空気が入ってきてる感じがしない。
苦しくて苦しくて、涙をボロボロこぼしてる姿を見て、おじいちゃんが言った。
「病院が開くまで待ってらんねえよ、こんなの。救急車呼んでやんなきゃなんねえよ」と。
そして、受話器を持ち上げたおじいちゃんに、祖母は言った。
「やめなさいよ救急車なんて!近所の人が見たらどう思うのよ、恥ずかしい!みっともない!」
こんなんを、3時間半は繰り返し続けていた。
パパが家を出るのは大体5時頃で、私が最後に時計を見た時、針は「8時30分」を差していた。
結局おじいちゃんが大激怒して、119番にかけてくれた。
そうして飛んできた救急車によって、私は近くの総合病院に運ばれる。
同乗したおじいちゃんは、多分何か声をかけてくれたと思う。けど、苦しかったことしか覚えていない。
いや、「死んじゃうのかもしれない」って思ってたな、子ども心に。
ていうか、子どもだったからこそ、余計にそう思ったのかもしれない。
――で、無事病院で治療を受けて、発作のピークは過ぎ去ったものの……。
「なんでこんなになるまで放っといたんですか?」
「入院ですね」と、先生が言った。
そして、「なんでこんなになるまで放っといたんですか?」と言うわけだ。
そんなもん、決まっとろう。
これしかなかった。
すごくすごく、言いたかった。
でも、まだゼェゼェの「根っこ」みたいなのは残ってたし、喉も痛くて。あと、「よかった生き残れた……」みたいな気持ちもあったし。
まぁ、自分のことで精一杯だった。
でもさ、よくできた話で、ほんと作り話みたいなんだけど。
そこへ、来るんだよ、祖母が。
タクシーに乗って。
そんで泣きながら言うのよ、先生に。
また始まった、と思った。
(その辺は、別に書いてあるので省く)
▼これ
……で、先生は祖母を見て「良いおばあさんだね、よかったね」って言ったの。
で、おじいちゃんには「あとは看護師から説明ありますから」みたいな。伝えることは伝えましたから。みたいな態度で出て行った。
思い出すと、今でも涙が出る。
悔しくて、情けなくて。
おじいちゃんが、かわいそうで。
他の誰でもない「私」が、それらを言えなかったことも。
おじいちゃんが、先生からの叱責を甘んじて受けていたのも。
全部が全部、つらい記憶だ。
――でも、怒りの方が。
エネルギーの強さは、遥か上を行くものなのだ。
先生が部屋から出ていくと、祖母はぴっぴっ!て感じに涙を拭って、「じゃ、あたしは帰るから」って言うんだから、そりゃ怒りも湧いてくるのよ。
……なんで言わなかったんだよ!
お前が!したことだろうが!
――で、祖母はマジで普通に帰って、その後は病院に来なかった。(いや、パパが来た時は来たかもしんない)
「こういう人」を相手にしてたらさ。
そら「子ども」も、生意気な口(笑)とやらをきくようにもなるでしょ(笑)
――と、本気で!今も!思い続けている。
でも祖母は、パパには自分の「母親」だ。
ほんで「私」は、パパの「娘」だ。
だから、複雑な気持ちは、祖母が亡くなった今でも、あるとは思う。
「私」にとっては「極悪非道のクソババア」だったとしても。
パパにとっては「優しい母」だったのだと、思う……――いや、分からない。
パパ曰く、祖母の手料理の記憶すら、ないらしいので。
これについては……多分、フォローのつもりだったんだろうね。「まぁ、仕事が好きだったんじゃない?」と言ったことがあった。
けど、違うと思う。
なんでって、祖母はおじいちゃんに喧嘩をふっかける時、いつも言っていた。
だから、多分違う。
ちなみに、パパはこのことも知らなかった。
なんでだよ。
おじいちゃんは仕事(漁師だった)で長く家を空けても、帰ってくると――お好み焼きだったかな?なんか、そんなようなのを作ってくれた、と言ってたけども。
「私」にとっての「おじいちゃん」
――言うて、おじいちゃんは短気な人だった。
自分でも、「じいちゃんはなぁ、短気だからなぁ」と言っていた。
おじいちゃんと祖母が、喧嘩するじゃん。
いや、ほぼほぼ毎日喧嘩してたから、あれはもう「喧嘩」とかではなかったと思うんだけど。
――とにかく、喧嘩が始まる。
すると必ず、おじいちゃんはテーブルをひっくり返した。
たとえ食事中であってもやるから、「ごはん……」とも思ったけど、当たり前に「こわいよう……」と思っていた。
そんで、おじいちゃんは片付けもしないで、家をプイッと出ていく。
残される、私と祖母。
祖母は泣きながら「おじいちゃんはひどいよね」「おじいちゃんが全部悪いよね」と、私に言って聞かせる。
その時はまだ、「私」は素直に祖母の言うことを信じていた。だから「おばあちゃん……かわいそう」とまで思っていた。
だって、実際に目の前でご飯と共にテーブルはひっくり返されてる。……で、祖母は私をスーパーに連れて行き、なぜかお菓子を選ばせる。
「なんでも、好きなもの買っていいよ」と。
選んでる間、ずーーっとおじいちゃんの悪口がBGMだったが、そんなことより子どもは「おかし!」である。
しょっちゅうそんなことが起きるから、私のお茶碗はついぞ「コレ」というものが決まらぬままだった。
そういえば、なんか古めかしいけど定番の柄(今となっては逆に珍しそう)みたいな、そういうお茶碗ばっか使ってたな。
あれ、今はとんと見かけないよね。
――でも、かわいい「子ども用!」ってお茶碗もあったはずなのに、気づいたらもう変わってる(というか戻ってる?)。
(なぜか、茶碗が割れる時はいつも私のが割れた)
でも、「おじいちゃんはひどくて、おばあちゃんはかわいそう」と、幼い頃の「私」は信じていたが……まぁ、長くは続かない。
「おばあちゃんが言ってること、おかしくない?」と気づくと同時に、戦いは始まった。
だけど、言うておじいちゃんはいつも「お前は黙ってなさい」と、結果的には祖母を庇うような言動をした。
――いや、そもそも。
あれは「喧嘩」じゃなかった。
あれは、間違いなく「いじめ」だった。
おじいちゃんがコンプレックスに思ってることを、わざわざ指摘したり。
おじいちゃんが言い返さない、やり返さないと思って、祖母は好き放題していた。
それにある日、気づいてしまった。
ほんで、気づいたら、「見て見ぬふり」ができなくなってしまった。
そして――いつしか「おじいちゃんと祖母の喧嘩」より、「私と祖母の戦い」がメインに成り代わっていた。
なんでだよ。(2回目)
いや知らんけど(笑)
何か事情があった……かもしれなくとも。
苦労してたとしても、大変だったとしても。
もうこの世にはいないママを、侮辱して。
「私」を育ててくれたおじいちゃんを、コケにして。
最終的には「私」に「癲狂院に入ればいい!」とまで言った。
そういう人間のことを、なんで「私」が慮ってやんなきゃなんないの?
――って感じである。
ていうか、そもそも見殺しにされかけてるのね、こっちは!(先程のエピソード)
しかも、「近所に恥ずかしい」とかいう意味分からん理由で。
いや、ていうか、そもそもさ。
毎日毎日、聞くに耐えない罵詈雑言を喚き散らしてんの、みーんな(ご近所さん)知ってたって!
ぜーんぶ外まで聞こえてっから!
学校が終わって、そっからテクテク歩き、家に近づいた時。もうワーワー言ってる(叫んでる)のが、聞こえてくることもあった。
なので、ご近所に聞こえてない――わけない。
うちもだが、あの辺はそもそも「古い家屋」が多いしね。
(うちの「家」は、100歳まで生きたおじいちゃんが結婚した時……30歳とか、そこら辺?――で、ひぃおばあちゃんが買ってくれたもの)
――そういう時は、そっとランドセルだけ玄関に置いてって、そのまま遊びに行ったりしたこともある。
ほんでさ。
掃除も洗濯も料理も買い物も。
全部おじいちゃんがした。
私の、学校関連の準備とかだってそうだ。
おじいちゃんが、全部なんとかしてくれた。
……祖母が「私」にしたこと?
ついでに言うと、血の繋がった姉妹――の息子。
つまり、祖母からしたら甥っ子だけど。
この甥っ子を通して、実姉に絶縁もされてた。
……理由?
早くに亡くなった姪っ子を引き合いに出して、相手方を侮辱したからである。
知らんて、ほんと。
事情があろうとなかろうと、そんなもん知らん。
「喚き散らせば、なんでも思い通りになる」って人間の事情なんか、知らんて。
でも、そんな祖母でも、死んだらおじいちゃんは悲しんでた。泣いてもいた。
「私」は、「ああいう人間でも、死ぬ時は死ぬのか」と、思った。あと、「逃げやがって」とも正直思ったので、「私」も泣いた。悔しくて。
最後には「良いおばあちゃん」みたいなこと一方的にして死んでったのも、「自分だけ楽になりやがって」と思って……腹立ちすぎて、さらに泣いた。
なのに、周りは「おばあちゃんが面倒見てくれたもんね……」とか言うから。もう全部暴露したくて、しょうがなかった。
けど、パパの手前、我慢したことを覚えている。
しかも、おじいちゃんまで泣いてんだよ?
それはもう……言えないじゃん。
言えなかったよ、「私」には。
ていうか、死んでもパパの兄貴たち(パパは4人きょうだいの末っ子)の奥さんのうち、通夜葬式に出たのは1名である。
――てことは、ちゃんと、嫌われている。
なので、言った人たちも「おばあちゃんが面倒見てくれたもんね……」とか本気で思ってるわけがねえ。
ここまで人から嫌われてる人間、他に出会ったことがない。(今のところ)
……さて、いい加減に「改名する!」って話に戻しますか……。
「私」が「文章界のゴッホ」を目指した理由
「私」のアカウント紹介には、「目指せ!【文章界のゴッホ】」とある。
この理由は、「おじいちゃん」にあるのだ。
祖母を、今でも憎んでいる。
でも、だからこそ、鮮烈な記憶も残っている。
だけど、まったく関係ない(笑)
だって、おじいちゃんが「私」に教えてくれた。
「ゴッホって画家の人生は、すごかった」って。
おじいちゃんは確かに、他人からしたら「短気な人だった」と思う。
それは、この記事をここまで読んでくれた「あなた」も、「確かにね」と思うかもしれない。
でも、歌が好きで、絵が好きだった。
画集を見せてくれる時、いつも楽しそうだった。
自分が描いた絵の話をする時は、少し照れくさそうだった。
▼おじいちゃんの作品
おじいちゃんは、「想像」することの楽しさを知っていた。
▼記事でも書いてるよ!
――で、その「おじいちゃん」が、ゴッホを教えてくれたから。
「私」が双極性障害とはっきり診断された時、おじいちゃんに「だから大丈夫だよ」と、「理由」を言えた。
ちょっと、また話変わるけど。
ちゃんと繋がってるから、聞いてほしい。
私が初めて、いわゆるリストカットをしてしまった時――それを見つけたのは、おじいちゃんだった。
その瞬間は「何してる!!」って怒鳴って、すぐ刃物を取り上げた……というか、叩き落とした。
でも、次の瞬間には、もう泣いてた。
頑張ったけど、やっぱ我慢できないって感じに。
そんで、つっかえつっかえに言った。
「つらいんか、そんなに、死のうと思うほど、こんな、こんな真似……そんなにつらいか、」って。
私も泣いた。
おじいちゃんを泣かせてしまってから、とんでもないことをしでかした!と思った。
そんで、やっと怖くなって、泣いた。
祖母の反応も一応書いておくか……と思ったけど、「無」すぎて書くことなかった。
家には確実にいたのにね。
あの人、ほとんど家にいたから。
だけど、「この時」何してたんだか、まったく分からん。
普段は……基本、寝てた。
「おじいちゃんのせいで!具合!悪い!!」っていう、マジで謎すぎる言いがかりつけて。
あとは、買い物とか友達(「トモダチ」だと思うけど)とカラオケ行ったりとか――って記憶。
けど、それからなんやかんやあって、「私」に双極性障害と診断名がついた時。
……やっぱさ、色々調べたり、本を買ってみたりするじゃん?
だって、聞いたこともない「未知の病」だったから。周囲にとってもだけど、当人である「私」にとってすら。
その過程で、「ゴッホも双極性障害だった(かもしれない)」みたいな情報に触れた。
それは、「点と点が繋がった」瞬間でもあった。
「私」が何で知ったかは忘れたが、こちらの対談形式の記事が分かりやすいので、紹介させていただきます。
(残念ながら、原田マハさんの『たゆたえども沈まず』は読んだことがない……ので、読んでみたい)
上記の記事の、事務の人さんのコメントを引用させていただいたが、「私」はこのエピソードをおじいちゃんから聞いたことがあった。
おじいちゃんが、ゴッホを好きだったから。
だから、画集に載ってるゴッホの絵を見せながら、「ゴッホって画家の人生は、すごかった」って話をしてくれた。
そんで、その話の終わりが、いつもこれだったのだ。
だから、ずっと私の心配をしていたおじいちゃんに、言えた。双極性障害と診断がついた時に。
おじいちゃんは言った。
「そうかぁ。すごいんだな!ゴッホか!」って。
ほんとは、色々思った――と、思うけど。
でも、おじいちゃんは笑ってくれた。
なんか、むずがゆそうに。
――でさ、改名の話に戻るけど。
……まぁ、まだ、全然【文章界のゴッホ】にはなれてませんけど。
――だけどまぁ、「そもそも形から入るタイプでもあったな、「私」って」と、最近になって思い出してきたので。
これを機会に、改名いたします。
この記事から「私」は、「松本ゴッホちゃん」になります。
あの「昔ながら」的な、多分、「昭和レトロ」とかって呼ばれそうな柄のお茶碗、実家にまだあるんかな?
いや、「これこれ!見たことない?」って画像貼りたかったんだけど、なんか見つからなくて。
「私」のイメージにある「そう!コレのことよ!」ってのが。
▼「私」ってこんな人
今度、実家に帰ったら聞いてみよ!