生きるのが怖い

 生きて行くのがとても怖い。傷つくのが怖い。傷つけられるのが怖い。生きている限り、辛いこと、苦しいこと、しんどいことが降り掛かってくる。日常の不安、周りの目、人間関係、将来について。全てが怖い。「これ以上傷つきたくない」この一心で人生という道を寸断したくなる。
 人生の意味を問うことはしなくなった。そんなものに意味はないから。自分が傷つかなければ、どうだっていい。でもこの世界で生きている限り苦しいことは続く。苦痛は「一生」付きまとう。そんな人生を歩む理由なんて、あったところで価値はない。
 どんなに他人が羨む境遇でも人は簡単に死ぬ。そうやってできているのだ。自死というのは、ある意味絶対的なものでもある。どんなに幸せな人間でも可能性はゼロではない。そう考えると人間がいかに弱い生き物なのか思い知らされる。
 他人は何を考えているのだろう。自分以外の人間は何を思ってこの社会で生活を送っているのだろう。人生の恐怖に屈せずに、どのように生きているのだろう。「普通で有りたかった」と思うと同時に、「苦しみを感じていない人間にはなりたくない」とも思う。人生が楽しくてしょうがない、という空気を醸し出してる人を見ると、なんとも言えない気持ちになる。「果たしてあれが僕が望んだ姿なのだろうか」そんなように考えると、自分が何を求めているのか、どうなりたいのかわからなくなる。村上龍のコインロッカー・ベイビーズの作中に、「自分が欲しているものがわかる人間は利口だ」とそのようなことが書かれていた。その通りだと思う。今僕は心の底から欲しているものを認識できてない。いや、ないのかもしれない。お金があろうと、好きなものに囲まれようと、心が満たされることがない。
 楽しいことと、辛いことを比べた時、これからの人生で楽しいことがいくらあったところで、辛いことが数ミリあるならば、人生の歩を止めたくなる。苦しみに対して心が過敏になっているのかもしれない。そんな人生を歩む必要があるだろうか?
 希死念慮というのは不思議なものだ。どうやっても拭えることはない。常に持ち続けている。希死念慮という火は、辛い時には燃え上がるが、楽しい時に鎮火はしない。辛さには比例して上がるが、楽しさに対して反比例して落ちることはない。また、ふと何もないのに突然激しく燃え始めることもある。とても厄介なものだ。
 この文章にオチはない。ただただ僕の心情を文章に落とし込んでいるだけ。

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