花虹源氏覚書~第三帖 空蝉(二)
昔々その昔、帝の御子に光る君と呼ばれるお方がおられました。
源の姓を賜り臣下となられましたが、三人のお子様は、お一人は帝に お一人は皇后に お一人は人臣の位を極められたそうな。
そのお血筋の末の末、千年を経た世のとある姫さまに教育係の女房が語る光源氏の君の物語
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空蝉その二
むかしがたりをいたしましょう
光る君は、つれない態度をとり続ける女君にかえって執着し、再び紀伊守の邸をお忍びで訪れました
意中の女君とその義理の娘がくつろいで碁を打っているところを垣間見しておりましたが、手引きをした小君が戻ってきたため、涼しい顔で元の場所に戻ります
小君は、光る君を端近に押し込めていることに恐縮しながら「折悪しく西の対の姫君が来ていて、お側に寄ることができません」と申し上げました
光る君が「そんな見え透いた言い訳で、また、私を追い返そうとしているのだね、随分な仕打ちではないか」と、今まで垣間見していたことなどおくびにも出さず語気を強めますと、小君は「なぜそのようなことを。姫が西の対へ戻ったら首尾よくいたします」と自信たっぷりです
―――あら、小君は姉上に勝手な真似をするな、ときつく叱られていたはずなのに。どうするつもりなのかしら?
小君には さしたる深い考えなぞございませぬ。
姉君はかたくなに光る君の訪れを拒むであろうこと、その心を変えることは難しいことは承知していて、とにかく姉のところに光る君を連れて行ってしまえばなんとかなる、と思っておりました。
男たちのよこしまな思惑を闇にひそませたまま、女たちののびやかな夜が更けてゆきます
碁の勝負もようようつき、邸は、寝支度に入りました
衣擦れの音そよそよと人々の動く気配
侍女の声と格子をがたがたと錠を鎖す音
頃合いと見て、光る君は小君を促します。
小君は戸を叩いて童に開けさせて中に入りました。
「この障子口に畳を敷いて寝ることにするよ。ああ、風が通って心地よい」と声高に告げ、障子口を閉ざされないように知恵を働かせたようです。
女房達や女童は思い思いの場所に臥して、邸は寝静まっていきました。
小君は、しばらく寝たふりをしてあたりの様子を伺って起き上がり、灯りを屏風で遮って影をつくり、光る君を手引きいたしました。
我ながら愚かしい真似を、とお思いになりますが、小君の導くままに几帳の帷子を引き上げてそっと部屋に入りました
光る君の御衣は極めて上質ですから、その衣擦れの音もやわらかく耳に心地よく響きます。
濃い闇の帳の下りた夜更けの邸、高貴な方のかすかな音と匂いが静かに女君に向かってゆきました。
あの方の気配がする
女君の浅い眠りは、光る君の優美で艶やかな香りに破られました。
女君は、光る君からの御文が途絶えたことに安堵し、これで良かったのだ、と思おうと努めておりましたが、あの妖しい夢のような夜のことが心から去らず、このところ眠れぬ夜と物思いの昼を過ごしておりました
碁を打ちに来ていた継娘は、勝負のついた後も西の対に戻ることなくおしゃべりに興じてそのままこちらで眠ってしまいました。
若く健やかな娘は安らかなまどろみの中にありましたが、女君は今宵も現と夢の合間で煩悶していたのでございます。
は、と目覚めた女君は、几帳の向こう側に夢ではなく確かに男の身動ぎする気配を感じました。
暗くて姿は見えないけれど、この香りはあの方に違いない、ああ、どうしたらよいのか…
女君は、惑い、悩み、そして刹那に心を決めて、生絹の単衣のみの姿でそっと音もなくすべるようにその場を抜け出しました
――― 「生絹の単衣」は、夏用の薄い織物の肌着ね。どうしてそのような恥ずかしい格好で逃げていったの?上衣くらい着ていけばよいのに。
真の闇の中では、思いのほか音や匂いといった気配に敏感になります。現に女君も光る君の訪れをその気配で覚りました。
衣擦れの音で己が去ったことを気づかれぬように上衣は脱ぎ捨てていったのでございましょう。
――― そう。千年前の夜は本当に暗かったでしょうね。
ところで、光る君は、また女君に逃げられてしまっておあいにくさま。がっかりしたかしら。
さて・・・そうであればよろしゅうございました。
光る君が几帳の中に入りますと、女がひとりで寝ています。
目指す相手にようやくたどりついたと安堵し、上掛けの衣を退けて女体に寄り添い身を横たえました。
おや、かつての共寝の記憶よりも豊満だ、と思いながらもよもや別人とはお思いになりません。
しかし、あの時の、こちらが恥ずかしくなるような気品も、せめて心は許すまいとする張りも意気地もない手応えに、流石に光る君もこの女はあの女君ではない、とお気づきになりました。
なんとまあ、間の抜けた羽目になったことだろう、どうしたものか、と考えをめぐらせます。
今更、本命の女君を探して訪ねたところで、こんなにも逃げ隠れする意思が固いのであれば、さらに馬鹿を見るだけでなんの甲斐もない、と腹立たしくお思いになりました。
そして、この、腕に抱いている女は、先ほど垣間見た女君の継娘だろう、と見当をつけました。
豊満で艶やかなあの娘であれば悪くない、などとあっさり気を取り直すのは、困ったお心の浅さでございます。
女君の継娘は安らかなまどろみを突然破られたと思ったら、抜き差しならぬあさましい目にあっていることに吃驚仰天です。
といって、男を拒み通すでもなく、乙女らしく恥じらっておびえたり泣いたりというわけでもありません。
光る君は、段々と興覚めな気持ちが勝ってきて、いっそ、自分がどこの誰とも知らせずにおこうか、などと投げやりなことも御心に浮かびます。
しかし、自分はそれでもかまわないけれど、後々この件を詮議されたときに、あのつれなきひとも醜聞にまきこまれるだろう。あんなにも人目を気にしているのだから、それでは気の毒だ、と思い直します。
そこで「方違えを口実に度々、邸を訪れていたのは君に逢いたかったからなのだよ」などと取り繕って娘に言って聞かせました。
よくよく考えればおかしなこと、と気が付くのでしょうが、まだ若い娘は深く考えることもなくそれで納得したようです。
この他愛のなさに比べて、女君の強情さといったらどうだ、近くで息をひそめて私の愚かな執着を冷やかに見ているのだろうか、これほどに思いを寄せられて靡かぬ女などめったにあるものではなかろうに、などと恨み言が次から次へと湧いてきます。
光る君は、我が手からすべりぬけた女君を愛憎半ばに思い切れぬ一方で、かりそめの契りを結んだこの娘については特にお心に留め置くほどもない、と淡白です。
しかし、娘の若々しく素直な様子に流石に気が咎めるのか、こまやかにあれこれと言って聞かせます。
「このことは二人だけの秘め事にしておこう、男と女の仲は、忍ぶ恋こそ趣があると昔から言われているからね。私も差し障りのある立場だし、君の父はこういうことになったのを喜ばないだろうから胸がいたむよ。私を信じて待っていておくれ。」
おざなりな男の言葉を「他の方に知られたら恥ずかしいわ。どのようにお便りさしあげればよろしいのかしら」と娘は疑うことがありません。
「秘密の恋だからね、だれにも気取られないようにしておいで。この家の小さな殿上人を通じて言伝てするよ」などと言いおいて女君が脱ぎ捨てていった薄衣を拾い上げて出ていきました。
――― ひどすぎる。巻き添えになった娘さんがかわいそう。光る君は不誠実だわ、適当なことを言ってうやむやにしてしまおうという魂胆が丸見えよ。 なんだか、がっかり。
姫様のお気持ちはごもっともでございます。
しかし、これはむかしがたり、千歳のはるか昔のことにございます。
今よりも身分の壁は高く越えがたきものにございました。
帝の愛児、左大臣の婿たる光る君にとって受領の娘ごときは野の花も同じ。手折るのになんの遠慮があるものか。娘を尊重し丁重に扱うべきであるものとは露とも思わなかったのでございましょう。
――――そう。身分って何なのかしらね。
自分が今よりもずっと低い身分に生まれて上の人たちから粗末にあしらわれたらと思うと哀しい。
遠つ国では民草が蜂起して王も貴族もすべて廃されたところもあると聞くけれど。この日の本の国もいずれそうなるのかしら?
それはお答えすること叶わぬ難しい問いにございます。ただ、人の世は身分をなくしたとてまた別の形で差異を見出し、序列をつけるものにございますよ。
今は、姫様の、異なる身分のものに我が身をなぞらえて思いやることのできるそのお気持ちが尊いと申し上げるにとどめましょう。
―――あら、私、めずらしく褒められた?
それで、光る君はこのあとどうしたの?教えて?
光る君は、近くに寝ていた小君を起こし、邸を抜け出します。
老女房に見咎められてきまり悪い思いをしながらも二条邸に御戻りになりました。
今宵の顛末を語り、爪弾きして女君のつれなさを恨み、小君の手引きの拙い幼さを攻め立てます。
ああ、これほどに疎まれてしまっているとは、憂きことばかりだ。せめてやさしいことばのひとつもかけてくれればよいものを。自分は伊予介にも劣るとでもいうのだろうか、と愚痴はとまりません。
小君に対しても「お前はかわいいけれどね、あの憎いひとの弟だと思うとこの気持ちもいつまで続くか分からないよ」などと言うので小君はいたたまれません。
寝所から持ってきた小袿を憎くて愛しい女君の身代わりにかき抱いてお休みになりました。
薄衣からは女君の人肌の香りがして、光る君は会うことのかなわなかったかの人の面影を偲びます。
なかなか寝付かれず、光る君は硯を持って来させ、懐紙に手習いのように走り書きなさいました。
空蝉の身をかへてける木のもとになほ人がらのなつかしきかな
――― 小君もひどいけれど、光る君の叱責は八つ当たりではないかしら。
空蝉は、蝉の抜け殻。
この女君が今の世に<空蝉>という名で伝えられているひとだったのね。
御歌の意味は、「蝉が姿を変えて飛び去った後の木に空蝉が残されているように、逃げ去ったあなたは私のもとに衣を残していきました。それを縁にあなたという人をなつかしく思います」というところかしら。
教えて、この後<空蝉>の女君はどうなったの?
それでは、ここからは後世の通り名である空蝉と、この女君をお呼びします。
空蝉は小君の来るのを待ち構えていてその幼い分別の無さを厳しく叱責します。あちらで恨まれこちらで叱られ、散々な小君なのでした。
小君は、光る君が歌を書きつけた懐紙を持ち出していて、姉に渡します。
空蝉は走り書きされた歌を読み、自分が脱ぎ捨てていった小袿は光る君が持ち去ったのだと気付きました。
あれは伊勢の海女の衣のようではなかったか、と気を揉み心が千々に乱れます
―――つまり、衣が湿って汗臭くなかったかしら、とやきもきしているということ?そもそも自分の来ていたものが男の手元にあることが嫌だわ。
それよりも、あのひどい目にあった義理の娘さんはどうなったのかしら
西の対の姫君には、後朝の文ひとつ届きませんでした。
後朝の文、とは、殿方が女人と一夜を過ごして帰った後の朝に贈る文で、これは欠かすことのできない礼儀でございます。その文は届くのが早いほど思いが深いとされていたのでございます。
しかし、西の対の姫は自分がそのような軽い扱いをされている意味にも思いが至らず、どうしたら良いのか、自分では分別できません。
秘密に、と言われたことを守っているので誰にも相談できず、ただ、小君の姿を目で追って、何か便りはないかと待ち望んでいるのが気の毒な事でございます。明るい方なのにふさぎこみ物思いにふけっているようです。
おや、姫様、どうなさいました?眉間にそのように皺を寄せて
――― いくら身分に差があるからといって、光る君の対応がひどすぎて腹が立っているのよ。
そして、空蝉にも。ねえ、教えて。空蝉は、こうなることがわかっていて娘さんをおいて自分だけ逃げたのかしら。
光る君の西の対の姫に対するお振舞いは、光る君の若く青い驕りの表れといえるかもしれません。
気の赴くままにふるまったとて、自分を咎めるものなどないことをよくご存じなのでございましょう。
得てして驕るものは驕るにたるまばゆい光を放つものにございます。西の対の姫もあのような目にあっていても光る君のことを悪くは思っておりませぬよ。
そして、空蝉も、己の意思で拒みながらも光る君に惹かれる気持ちを消してしまうことはできずにおりました。
あの夜、咄嗟のことで自らが逃れるのが精一杯であったのでございましょう。故意に義理の娘を光る君に差し出したわけではありますまい。
空蝉は、自分が娘であった頃を取り戻すことが出来るのであれば、とむなしく夢想しながら、光る君の御歌の書かれた懐紙の片方に歌を書きつけるのでした。
空蝉の羽に置く露の木隠れて忍び忍びに濡るる袖かな
―――「空蝉の翅は露に濡れて木蔭に隠れています。人目を忍んで泣いているので翅ならぬ袖を涙で濡らしているのです」ということかしら。相手に届けられることのない返歌ね。それこそ空蝉にようにはかない御歌だわ。
光る君は、恋多きご生涯と聞いているけれど、正妻の葵上、空蝉の女君、その義理の娘さん、今のところ、光る君は、だれのことも幸せにしていないわ。
教えて、光る君は、この後、どうなるの?
誰と幸せに結ばれるの?
さて、光る君の光が数多の女君のどなたを多く照らし出すのか、それは長い長いものがたりにございます
どうぞゆるりとお聞きくださいませ
第三帖 空蝉 了
第四帖 夕顔 へ 続く
岩波文庫 源氏物語(一)89ページから95ページ
見出し画像は 週刊朝日百科 絵巻で楽しむ源氏物語