「ルックバック」に潜む怒り(映画感想文)
この感想文はルックバックの原作漫画を読んでおり、アニメ映画も鑑賞済みの人間によって書かれたものです。
作品の内容に関する記述でいっぱいですので、これから原作を読む方、映画を観る方はご注意下さい。
上映時間は58分、料金は1700円。映画にしては短めの作品。
それでも約1時間の間、劇場内に誰かのすすり泣きが響いており、私も後半は必死で目元をティッシュで押さえていた。
藤野と京本が送った青春があまりにも眩し過ぎて、その後理不尽に降りかかる暴力が恐ろしかった。
映画で一番最初に「!」となる演出は、ぐるんと回転するカメラワークだろう。終盤で違う世界線を繋ぐ演出を冒頭ですでに出しているのだ。
最初の四コマ漫画がアニメになっていたのも驚いた。
やたら男女の声がいいから声優は誰だろうと思っていたら、森川智之さんと坂本真綾さんだった。そんなところでその二人を……!?
作中の四コマ全てアニメにされていたらだいぶスベっていたと思うので、最初の一本だけで安堵。
小学生時代の藤野に「もうそろそろ絵描くの卒業した方がいいよ……?」「オタクだと思われてキモがられちゃうよ……?」って言った子の存在が、声の演技付きで観るととても切なかった。
この子は別にオタクの藤野ちゃんキモい!って思ってたわけじゃなくて、ただ藤野ちゃんに漫画だけじゃなくて、自分のことを見て欲しかったんだろうな。帰りにアイス食べようって言われて嬉しそうにしてるし。
自分と一緒にいる時間を作って欲しかったから、キツめのことを言ってしまっただけなんだと思う。
でもそれが藤野が持つ情熱の否定に繋がることには気づいておらず、のちに藤野と京本が友情を深めていくほど、この子はもう画面にも出てこなくなる。藤野の視界からいなくなってしまうのだ。
京本に卒業証書を届け、初めて出会った日の帰り、雨の中を浮かれて飛び跳ねる藤野の動きが最高だった。
アニメだったらいくらでも綺麗なダンスみたいな演出に出来たのに、不恰好で不規則で泥水を跳ね返しまくって、喜びと恍惚と優越感と自尊心の高まりが雨粒とともに爆ぜるような、美しくないのに美しい動きと表情だった。
大雪が積もる中、二人で手を繋いでコンビニに行くシーン、佳作受賞の賞金で街に繰り出す二人の眩しさも素晴らしかった。
引きこもりだった京本の手を引くのはいつだって藤野だ。
観客からすると藤野は努力家ではあるけれど、見栄っ張りでお調子者な一面があることを知っている。
けれど京本にとっての藤野は、本当に光そのものだったのだろう。
今の自分の背景を描くスピードでは藤野の連載の足を引っ張ってしまうから、(恐らく)いつかちゃんと彼女の役に立つために、美大に入ると決意するくらいには。
原作では二人の決裂は下から仰ぎ見るような構図だったが、映画では二人の間に真っ黒な木がそびえ立っており、何度も手を繋いできた二人の断絶が一層際立っていた。心の中じゃ大好きなのにね。
京本の運命を変えることになる加害者の「見下しやがって」「俺のアイディアだったのに!」というセリフは、原作がジャンププラスに掲載された後に批判を受けて修正され、その後単行本化でさらに変わるという経緯がある。
私は単行本版が一番分かりやすくなっていると思う。
加害者が口にした言葉は、藤野が知り合う前の京本に対して、内心思っていたことと同じではないかと感じたからだ。
京本は学年新聞に四コマ漫画を載せていた藤野の真似をし(ただし先生を通じて藤野に許可を取っている)、その結果、藤野よりもすごいという名声を得ている。
自分の作品(アイディア)を真似た者が現れたと感じ、劣等感に苛まれたのは、事件の加害者も藤野歩も同じなのだ。
実際「私より絵がウマい奴がいるなんて絶っっ対に許せない!」と藤野は怒りを口にしている。
だが彼女はその怒りのままに、暴力で京本に報復しようとはしなかった。
デッサン本を何冊も購入し、ひたすら描き続けた。
絵が上手くなる方法を検索して辿り着いた誰かのホームページに表示された「とにかく描け! バカ!」の言葉通り、バカみたいに描き続けたのだ。
一度心が折れることはあってもひたすら創作を続けたことが、やがて京本との出会いに繋がり、自分が尊敬されていたこと、純粋な好意を抱かれていたことを知る。
加害者が誰の作品のどの部分を見て、アイディアをパクられたと感じたかは分からない。本当にそうだったのか、彼の思い込みだったのかも、作中では語られない。
だが怒りを覚え、暴力に訴えた時点で、この人と藤野の人生は分かれていたのだ。
「京本も私の背中みて成長するんだなー」とは藤野の言葉だが、実際作中に藤野の背中はたくさん出てくる。何だったら表紙のイラストも藤野の背中だ。ただ愚直に描き続けた、努力し続けた創作者の背中。
ルックバック原作の公開日について、京アニの放火事件を利用している、事件をエモ消費するなという意見をSNS等で見かけるたび、これはエモを狙ったわけではなく、加害者に対するメッセージなんじゃないかと思っていた。
何故立ち止まれなかったのか、一度は創作を志した自分の人生を振り返れなかったのかという、憤りによるものなんじゃないかと思っていた。
創作者へのエールと、その命を奪った者への怒りと、「とにかく描き続けろ!」というメッセージは、今も世界のどこかで劣等感から誰かを加害しようとしているかもしれない、かつては創作者だった誰かを、違う世界線に連れ出すためのものなんじゃないかと思ったのだ。
藤野の来訪が京本の部屋のドアを開けさせ、外の世界へ連れ出したように、藤野が京本の部屋のドアを開けて、京本の心の内に触れたように。
作中の加害者にだって、誰かとの出会いがあれば、描き続けられる強さがあれば、違う人生を生きていたんじゃないだろうか。
だって自分の作品をパクられた、真似されたと思うくらいには、一度は創作に向き合った経験があるのだから。
そう思ってしまうのは、私自身がわりと劣等感を覚えやすい性格だからだろう。自分と似た題材の話を書いているのに、自分と違って評価を得ている人を見かけると、どうしても妬みのようなものを覚えてしまう。
そんな人間をもう一度創作に向き合わせる熱量が原作にも映画にも確かにあり、ヘコんでいないで何かしなくちゃと、心をもう一度連れ出してくれる眩しさが、藤野の背中には確かにある。
とはいえ、この感想文も私の思い込みによるものだ。
誰かにとっては自分の感想の真似、あるいは自分を傷つける加害性に溢れた文章なのかもしれない。
思いがけない反応に驚いたり、期待した評価を得られずに落ち込んだとしても、大切な誰かに届くように、バカみたいに何かを創り続けるしかないのだろう。