雑記#3(東長崎の友人・アピチャッポンオールナイト所感・「ばらの花」の季節)
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或る日曜日も終わるころ、ぼくは風降る屋上にて電話をとった たしか室外機の裏あたりだったと思う 夜風が柔らかく吹いていて気持ちがよかったが 見下ろした路地の空気はひどく昏く底が見えない 夕立のあとの濁った川面によく似ている
ぼくの生活では基本的に誰かに電話をかけるということがない(職場や学生課のやんごとなき電話以外は取ることもなく)(こんな幽霊みたいな人間が、電話越しにて何を話し合うことができるのだ)(臆病なだけなのだろう、と。喋りすぎですか) 制作に集中するために誰もいない家を這い回る ズレた生活では季節が過ぎていることにさえ気づけない 毛布をなかなか仕舞えない いつもずるずると生きている
ぼくはいろいろな課題をすっ飛ばして、見下ろすというか並行した池袋の街の匂いを肺に入れる それは街にあぶれたひとの体臭と香水と食品と生っぽいゴミの匂いで、誰かの匂いというものはぼくみたく寂しい人間にとって見かけ上ほど不快なものではなく 眼前のマンションは風俗の待機場で、その隣のビルの間から見えるトーホーシネマズは妙にツヤっぽいのだがこの辺りのテナント、黄色い原色の無料案内所、朝まで永く走る安価なラーメン屋、煉瓦造りのシティホテル、そのような近い街の表面がくたびれているからだろう
どこか街もズレている 風景の位相 位相というものは線対象だと打ち消されてしまうのだがそのような景観はこの街のどこにもなく 今のぼくは増して有機的である
それに、ぼくはそのような雑多さ、に 嫌悪感を抱くには人間というものがあまり嫌いにはなれていない (声をひそめて ほんとは犬の方が人間よりずっと好きなのだが 勤務明けの屋上の通話のような そこまでさっぱりとしたコミュニケーションを犬とすることは難しい 性悪説は犬に伝わらないことは自明であり)
五月の東長崎から、脱稿が済んで、ちょっとだけ 良い機材を買ったから話したくなったのだと聞いた ぼくに見えない友人はいつものように少し恥ずかしそうに眉を下げて話しているのだろう ぼくはそいつに会いたいと思った(その後 最終電車を無くしたぼくはそいつの家に転がり込むのだが……)
眼下の 街をいそぐ人はどこか乾いているように見える 独りだと感覚は逆接だった 湿った風がいろいろなものを含んだまま海へと急ぐ 噛みつきたがりなぼくはその線上で静止した点P、(古井なら立ち止まらずに歩き続けるのか)終電があるので、とすぐに切ってしまった電話線はなにもなかったように空中で消えて ……すぐに気軽に思い出す手応えというものがなくなってしまう 急に眠くなる 昨晩に長い映画を二本も見たので瞼が重かった オールナイトで映画を見るとひとは何かから解放されて、剥き出しになるようだ
※所用で一本目は見ることができなかった
二本目から 映画のことはよくわからないのだが『光の墓』『memoria』は固定された画が多くてやたらと緊張感があった 少しも眠くならなかったし いつもみたいに冷えたビールを飲みたいとも思わなかった 『光の墓』では途方もなく長いの固定のショットで少しずつ色が変わり続けた グレーディングというのかな ぼくは起きているのか/寝ているのか もしくは正常なのか乱視なのか色盲なのかわからなくなる
近頃は60〜70年代の作家をよく読んでいるので、その延長でヌーヴォロマンというものを読み始めた。それはアンチロマンとも呼ばれるフランスの脱構築の文学運動である、映画のヌーヴェルバーグと並行していた らしい ロブグリエ(彼は映画も撮っていた) 『消しゴム』を読んだが 大方の人が想像する文学(それは西洋近代の産物であるとして 「物語」とは違う)から意図的に外れたところにある文学だった しつこい客観描写から突如梯子を外されるようにズレてゆく ハリボテの父性さえ倒れてしまった時代に 確かだった一つの演繹法が見えた
『世界には意味もなく不条理もない』とグリエは言った 何か一つの新しい視点を用意する、というのは作品の必要条件である それは時勢のような短い期間のなかで、ということではなく 「自然」としての普遍の人間、その中に繰り返し生成される命がけの跳躍のことだ
超越的なもの 影色の巨大なもの 身体としての「自然」は不安定にヒトの中でゆらめいている反復なのだ そして 『光の墓』の中盤 光の色相が移ってゆく夜の公園 そのショットばかりが確かにぼくの網膜に残り続けている
アピチャッポンの映画では その街ではたいてい工事が続けられていて、病人たちがいて、見えるものと見えないもの(聞こえるものと聞こえないものでもよく)邂逅の接続がある
揺らぎのなかにあるそれぞれの個人と(大きな意味での)「自然」が接続される時、それは一つの生の肯定になるのだと教わる 結局、「物語」というものはもはや古典的な科学のようで、有機的な揺らぎである「反復」とほんの少しの接続以上のものはいらないのかもしれない。
これを書いてるぼくは今も 制作という前向きな牢獄の中にいるので 信じるべきは誰かと接続されることではなく、ぼくの音楽であるべきなのだが。 作業も終盤になり歌詞を書いて仮歌を入れる その営みは他者「きみ」のことを信じることにかなり近いように思う
きっと明日も雨降りの朝で今日も会えないや、で 独りで引き受けられるものを背負いながら それでも少しだけ手を伸ばしたいので
、早めに寝て洗濯は乾燥機でも使って また別の友人と美味しいものでも食べようと思う(どうやらぼくは、看守付き、一等の牢獄にいるようだ)
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Profile
日本大学芸術学部文芸学科3年次に在籍。文芸誌「空地」執筆。『中村渚吉村空枝人』名義にて、都内のライブハウスを中心に演奏。文学フリマ東京38 E-15に出展。
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・文芸誌「空地」
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・中村渚個人のアカウント
X: @NagisaToofar
Insta:nanakaka_hihihitoto
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