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履き違えた平等はいらない。

今日、出勤の準備を終えて出かけようとした時に、何かが物足りない気がした。しかしその「物足りなさ」がなんなのか、今の今までまったく分からなかった。

そしてこの瞬間気づいたんだ。

イヤホン忘れたことに。

今日はNo music,No life(音楽聞けないので私のライフはもうゼロよ)状態となったのであった。


さて本題。

平等って言葉あるじゃないですか。

世の中見渡して、この平等という言葉を履き違えている人が目に付くよな〜って感じるんですよ。

例えば『企業における女性の役員比率を上げろ!』とか『同一業務なんだから賃金も同じだー』っていう人たちいますけど、それって違うんじゃね?って思います。

比率のことを言えば数字だけで帳尻合わせしてるだけじゃないの?って思いますし、同一業務だったとしても成果や実力の違いで収入に差は生まれて然りです。

私が考える平等とは<機会の平等>です。要はチャンスがあるかどうかってことです。

スタートラインは区別なく同じであって良いでしょう。しかしその後はプロセスや結果に基づいて適切に評価されて対価を得ていくべきだと考えます。

(ここで言う対価とは収入・地位・権限・役割のことです)

そのチャンスを等しく提供するのは義務化してもいいと思います。しかし、そのチャンスを生かした人間と生かせなかった人間では差が生まれて当然なんです。

でないと努力して能力を生かして結果を残した人たちが冷遇されたと感じ、モチベーション・生産性を下げる結果になりますからね。

与えられたチャンス・用意されたチャンスをに生かせなければ本人の責任と考えていいと思うんですよ。

何でもかんでも過保護にすりゃいいってもんでもないですし。そうしたら生きてく力を失っていくだけです。

少なくとも私が面談でお話しする相手がどんなタイプであれチャンスは用意します。活発なタイプもいれば大人しいタイプもいる。表情の豊かな相手もいれば無表情もいる。愛嬌の有無、性格の良し悪し、人の話を聞けるかどうか・・・無数に存在します。

しかしどんなタイプであっても分け隔てなく接します。そして随所にチャンスを用意する訳です。

そしてそのチャンスをうまく生かすことができる人ならば評価し、できなければ見切る。それだけです。

私自身もこれまでの人生で数々のチャンスを用意してもらってきたと感じます。しかし生かせなかったらそれまででしたし、生かせたなら相応の評価を得られてきました。

それが自分の人生や生活の充実に繋がってきたからこそ、次へのモチベーションになって生きる力になってきたと思うんですよね。

用意されたチャンスはラベルを付けられて目立つように並べられはいません。そのチャンスに気づいて活かせるか・・・それも本人の能力次第。

耳の痛い言葉にもフタをせずにチャンスに気づいていきたいもんです。


今日はこんな感じで。

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