深沙大将、多聞天、毘沙門天は同一仏。坂ノ上田村麻呂は蝦夷鎮魂の毘沙門天を奉った。
深沙大将、じんじゃたいしょう、です。
奈良県平群町杵築神社、南北朝時代。
天寿国繍帳の謎の仏尊。私は、深沙大将と推測します。
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深沙大将は、砂漠のオアシスの水神です。
西遊記の沙悟浄も、カッパではなく、深沙大将です。ドクロのネックレスをつけた、妖怪としての伝承のほか、多聞天が裸になった姿としての信仰があります。
水神として、蛇をまとわさせています。
四天王の四神、持国天、増長天、広目天、多聞天のうち、北、ないし、北東、ウシトラの方位の守護神である多聞天は、特別な信仰をもちます。
多聞天を単独で信仰するとき、毘沙門天となります。
インドでは、ヴァイシュラバナ、と呼ばれ、音約の毘沙門天が古い名前でしょうか。その意味から、中国で、多聞天とも呼ばれるようになる。
日本では、四天王の一員として、多聞天の名前が先行し、平安時代に都の北の守りとして鞍馬寺が創建され、毘沙門天としての信仰がさだまる。
北方鎮護の仏として、東北地方に、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の戦跡に多くの毘沙門天をもたらした。
この毘沙門天は、朝廷軍の守護神であると同時に、蝦夷の戦士への鎮魂の仏ではないかと、思えます。
飛鳥時代、蝦夷は尊敬すべき先住者として、平和裏に交流がおこなわれた。それが、平安時代には、討伐すべき野蛮人に、変わってしまう。
坂上田村麻呂自身は、戦敵蝦夷の首領、モレとアテルイへの、助命を嘆願する。しかし、朝廷は処刑を強行する。処刑場は、現在の北河内、交野市の森という場所であった。
交野市森は、ニギハヤヒ降臨の山、タケルガミネの山麓、天野川の七夕信仰発祥の地、古代信仰の聖地である。そこに、意味があるのかは、わからない。
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天寿国繍帳の謎の仏尊を、なぜ深沙大将と思うのか。
四天王寺の中心伽藍の、東北、ウシトラの鬼門に、亀井水は配置されました。当然、多聞天との関係があると推測します。水神としての多聞天は、深沙大将です。