邪馬台(ヤマト)か邪馬壱(ヤマイ・カメイ)か
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邪馬台か邪馬壱か
ごく簡単な話です
中国の歴史書が書かれた時代を整理したら
三国志の時代に卑弥呼がいたのは邪馬壱
その後倭の五王は畿内つまりヤマトから来たと中国につたえた
そこで倭人の国はヤマトなんだと知り
邪馬台国と書かれるようになる
邪馬壱と邪馬台は別の国ですね
と書いたら、次のような資料をいただきました。
つまり、12世紀に版本ができるまで、引用や参照はすべて邪馬台国となっている。
そりゃそうでしょう。5世紀以後、倭人の国はヤマトしかないと、中国人は認識していたのですから。
12世紀に版本を作るにあたり、臺を壹にまちがえた、というのが邪馬台国論の前提。しかし魏志倭人伝には臺=魏の王宮、と壹は正確に使い分けています。
後漢書では、分注で、元はヤマイだったと書かれています。
後漢書は時代が逆で三国志より後で書かれました
倭伝は魏志倭人伝を参照しています
しかし邪馬臺国と国名が変わります
倭の五王による朝見外交でヤマトという名前が認知されたからでしょう
邪馬臺国の下に分注があります
案今名邪摩惟音之訛也
ヤマイが転訛して邪馬台国になると
だから、ヤマトには卑弥呼さんはおられません。