聖徳太子水鏡御影と把笏
今日、2月22日は聖徳太子1402年忌です。
写真は、亀井水の影向井由来の楊枝御影と四天王寺では語られてきた、聖徳太子像の系譜の作例です。法隆寺では、水鏡御影と呼ばれます。亀井水との関連はほとんど全ての学者が想像もしていませんから、語られません。水鏡御影と呼ばれる肖像は、菅原道真、日蓮などの例もあり、亀井水との関連を想定する必然性はないと言えます。が、私は亀井水はなにより水鏡として機能していたと分析しますから、聖徳太子像の由来として想定したいです。
創作時期としては、平安時代末から鎌倉時代と推定されます。その原形となるものが、さらに古くからあり得たのか?
昭和になりお札の肖像が席巻するまで、こちらの聖徳太子像が主流でした。
握笏について、触れておきたいと思います。
笏は、飛鳥時代にはありません。だから、聖徳太子が笏を持つのは、変なんです。
しかし、これらの聖徳太子像の変なのは、両手で握りしめている点です。笏は右手に持つのが、奈良時代に唐から伝来した時からの作法です。また、そのファッションは袖が大きい。日本の役人は、競うように袖をでかくした。居ずまいを正すのに、両手とも袖に隠れますから、笏は袖の中から生えているように見えます。しかし、作法としては右手に持つはずです。
変✖️変、で、これは笏ではないのではないか?
飛鳥時代の木簡のなかには、短歌を一行で書くための、大型の木簡がありました。
つまり、笏ではなく、木簡ではないか。
想像をたくましくすれば、水祭祀において、木簡を水面に浮かべることもあったかもしれない。
大切に両手で抱えるように持つ長い板。の、一つの解釈仮説です。
平安時代や鎌倉時代に笏をこのように持つこともありえた、という話も可能ですが。