亀井水にであって23年、必死でレポートをまとめたのが13年前、Facebookにガラケーで投稿し始め8年ぐらいかな。歳とったな。
SNS初心者の必死のパッチ
以下、まだガラケーでFacebookを始めて、編集のしかたもわからずにいたころの投稿です。亀井水の説明をまとめるのに、それなりに全力投球している。写真や図の使い方もわからないときです。
🐲🐢🐢龍の指の数。そして、亀井と飛鳥の亀の指の数。四本です。なぜ🐍
プロフィール写真をよくご覧いただければわかりますが、亀井の足の指は、それぞれ、四本です。
飛鳥酒船石遺跡で発見された亀形水盤も、四本指です。亀井の四本指は、四天王寺の地主神である龍神様の変化と、私は考えています。
龍の指の数は、基本的に四本です。最近の龍画では五本に描かれることが多いです。中国では、五本指の龍は皇帝のみが装飾に用いることを許されてきました。
龍神は水神として、原形はへびです。羽根はないけれど、水が大気圏を循環するように空を巡る。飛翔する鳥の属性として、指は四本なのです。
四天王寺の立地する場所は、伝承では仁徳帝のとき巨大古墳が造られようとした。しかし、地主神の怒りにふれ中止され、古墳は百舌鳥の地に造られることになった。
神の怒りとは、台地の上にもかかわらず、予想外の地下水が湧き、その処理が出来なかったからと推測されます。聖徳太子は龍神を守り神として地下に封じ、四天王寺を建立した。つまり、地下水の治水工事を行うという、特別な基礎工事がおこなわれたのでしょう。四天王寺の着工が遅れ、またその間玉造の岸に仮の四天王寺が置かれたわけです。
また、この場所の特殊性は、生駒山地との関係にもあります。生駒山地の中心部に対応し、朝日が生駒山地の北端から南端へと巡る。中でも、生駒山頂部から朝日が昇る、穀雨と処暑の時期、真東に達した太陽が亀井水を最も輝かせるように、幾何学的に亀井は設営されています。
生駒山頂部の麓は、日下=くさか、です。民俗学者の谷川健一先生は、日下が、ヒノモト、日本の国名の起源であると述べられています。
ヒノモトの国の太陽礼拝と地下水の龍神信仰が交わる、光の舞踏。四天王寺創建の忘れられた情熱を、亀井水は明らかにします。
Facebookの投稿が読まれるわけないかな、と頭を冷やしたころ
カルトに洗脳された人を説得するのがいかにむつかしいか、いかにめちゃくちゃな信念でもそれなりに構築された観念は、たやすく崩れません。
カルトではなくとも、日常的な常識のなかにも不合理だけれども修正できない知識は、いくらでもあります。
2001年私が亀井堂に奉職させていただいた時、亀井水を四天王寺職員ふくめ、亀の池、と呼んでました。これをひつこく修正していたら、いらんこというな、と叱られました。
ともあれ、誤解の最大の源は、目の前の亀形水盤を亀だと気がついていない。ただの長円の水ためだと、みなさん見ていたことです。
生半可な知識のある方は、亀井は明治の大僧正が作られた、決まり!と断言されます。それは、上の亀の噴水だけです。
しかたないから、自分で調べるしかない。
学者も亀形水盤が見えていない。
ちょっと調べれば、すくなくとも平安時代以降信仰の対象になってきた聖徳太子像は、亀井水由来の、楊枝御影、水鏡御影、であったことがわかりました。
昭和以降刷り込まれた聖徳太子像は、信仰の対象とされてはこなかった。
戦前のお札の肖像画は、すべて空想図であることは自明でした。
しかし、戦後GHQが聖徳太子は平和主義者だからよかろうと、戦前の肖像画の使用を認めた。
このとき、聖徳太子像のモデルに歴史上信仰されてきた水鏡御影を用いていたら、と残念です。
ともあれ、聖徳太子の話をするとき、肖像画の話や亀井水の話をしても、だれも興味をもたない。頑固な年寄りは、怒りだす。
話がもつれて、聖徳太子論はわけがわからなくなってしまった。
からまった糸をほぐすには、無理にひっぱるとかたむすびになってしまう。
というわけで、亀井水に出会い20年、レポートをまとめだして10年。まだまだ序の口。
歴史はながく、人生もながい。急ぐことではない。
アルバムより