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四天王寺の猫。安眠中です。付録、猫をみながら書いた、私の寝言。学問の道は厳しいのだ。


聖徳太子と眠り猫と虎


元和再建図の太子殿

#眠り猫

四天王寺太子殿の二つの門。

写真上は、江戸時代初頭、元和再建図の中心伽藍と聖霊院太子殿。

太子殿と中心伽藍の間隔は狭く、お参りの人は太子殿の中を通り抜けたと、想像されます。

仏典では、お釈迦様を礼拝するとき、必ず、その回りを右回りに回ります。

中心伽藍の五重塔は、仏舎利を納めるお釈迦様のお墓ですから、寺院の参拝のさいは、中心伽藍の回りを右回りに回る、という想定がなされていたのではないか、と思案します。

正門である、南大門から、西へ向かい、ぐるりと、乾の丸池、艮の亀井水、と礼拝し、太子殿の北門に向かいます。

江戸時代の元和再建にあたり、左甚五郎が、北門に眠り猫の彫刻をほどこした。

とするなら、四天王寺太子殿の眠り猫は、日光東照宮の眠り猫の、お兄さんとなります。

太子殿内北門付近には、経蔵と絵殿があります。経典と、聖徳太子絵伝を、ねずみから守るために、猫がいる。

しかし、なぜ、眠り猫なのか。

太子殿にお参りをすませば、南西にある、虎の門から出ることになります。

聖徳太子の功徳をいただき、眠り猫が虎にパワーアップする。

という解釈は、いかがでしょう。


現在は、猫の門は開かずの扉で、別に北門が設けられ、聖徳太子絵伝の公開日に開けられます。実は、こちらにも、眠り猫がいます。


写真下左、猫の門の内側の眠り猫。

写真下、虎の門の内外の虎。

戦後復興時の、松久朋琳、松久宗琳、による復元です。

ちなみに、太子殿は中心伽藍の巽の位置です。巽には、摂政の意味があるとのこと。


亀井堂そばのベンチにて

猫を見ながら私のぼやき。学問の道は厳しい。

学問の世界には、やはり派閥があります。

学者として認められるためには、先生の学説を否定するのは、やはり難しい。先行する学説をいきなり批判するのも、大変です。

まして前例のないテーマは、評価してくれる先生がいないから、相手にされない。

四天王寺に関しては、戦前の、聖徳太子創建否定難波吉士氏創建説が、絶対的な権威となり、研究対象として軽視されてきました。

戦後の発掘調査、特に法隆寺若草伽藍の発見は、四天王寺様式中心伽藍が法隆寺と密接な関係があること、などが明らかになりました。

それでも、四天王寺は研究の空白域のままでした。法隆寺の研究書は山ほどある。四天王寺の本は、ほとんどない。


私にしてみたら、前例のない研究は、やりがいがある。たいした成果もなければ、投げ出しますが、その気になって探せば資料はちゃんとあるし、時には資料の矛盾にたじろぎながら、それを解決する資料もあったりします。

まず、そこにあるのが、亀形水盤であることに、大部分の学者は気がついていなかった。

17世紀の四天王寺所蔵の絵画や図面にも、亀形水盤として描かれている。

平安時代には、歌の名所として、亀井という愛称が定まります。

歌の内容から、お堂はまだなく、屋外施設であった。

ならば、回りの地形や、設営状態が、今と変わらない可能性が大きい。地下水を導き流すという機能は、聖徳太子の時代と変わらないだろう。ならば、その設計図を、当時の高麗尺で再現できる。すぐに、遠近法による視覚効果を意図した幾何学的構造がわかります。

聖徳太子の二歳伝説の朝の太陽礼拝と結びつき、それが後の夕陽礼拝の彼岸信仰の基礎であった。と、四天王寺信仰の全体像が、亀井水から導かれます。

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