「食べられるだけで、ありがたい」
引っ越しが好きだ。
だいたい1年半ほどで次の賃貸へ越す。
ほとんどが都内間での引っ越しなのだが、あるきっかけで森に住むことになった。
そのきっかけというのが、2023年に被災地へ訪問したことだ。
被災地での出会い
宮城県石巻市は2011年の東日本大震災で最も被害者数が大きかったと言われる場所。
綺麗に舗装された道路や、綺麗な建築物を見ると素直に「きれい」という感想だけでなくその裏に必ず「=被災したから」という事実が突きつけられる。
石巻市ではたくさんのお父さんお母さんたちに出会って、たくましく毎日仕事をしていた。ゆったり過ごしているのなんてわたしみたいに観光客だけなんだろう。
3月10日に石巻入りした。2011年に震災が起きた日づけの、前日だった。
石巻駅に昼過ぎに着くなり、大きな青空にサイレンが響き渡って、心臓がドキドキ、いや、バクバク、した。なんだ、これ、すごく、緊張する。
サイレンに続く放送は「明日は東日本大震災から丁度12年です。当時、地震が観測された時刻に1分間、追悼のサイレンを鳴らします。」という趣旨のものだった。
石巻のある漁港で出会ったお父さんお母さんたちは、ぽつりぽつりと当時のことを話してくれた。その時は、あまり目を合わせない。下を見たり、何か作業をしながら話す。10年以上経っても、心の傷はまだ生傷のままなんだと感じた。
聞いているだけでも苦しいのに、この方々は実際に身に起きたことなんだと思うと胸が締め付けられた。
色んなお話を聞かせてくださったけれど、いちばん最初に聞かせてくれたのはこうだった。「あの日はねえ、今日みたいにすごーく綺麗な青空だったよ。そしたら、地震が来てね。水も止まっちゃって。電気もないから夜になったら真っ暗で。まだ3月だったしねえ、とにかく、寒かった。だからみ〜んなで集まって、ぎゅうってくっついて寝たんだよ。
飲み水はどうしたかって?その時ね、水はないけど、雪があったの。ちょっと前に降ってた雪がまだ残っててね。溶かして飲んだ。よかったよ、雪があったから。よかった。」
訪問した日は、日中で、陽が照っていて、ヒートテックを着こんでいたけれど、空気の冷たさはひりひりと感じたのに、この姿のまま、暖房もない暗い夜に放り込まれたとしたら….考えるだけでゾッとした。
ある日、お母さん(Aさん)が漁師のお父さんに作ったお弁当というのを見せてもらった。
大きなおにぎりが3個。中身は梅干しと、おかかと、昆布だそうだ。
けれど先ほど、わたしたちはAさんから手作りの煮物をお裾分けいただいたばかり。わたしは尋ねてみた。
「お父さん、たくさん召し上がるんですね!でも今日の煮物、すごくおいしかったのに、お父さんのお弁当には入れないんですか?」
Aさんは答える。
「お父さんは、豪華じゃなくていいって言うの。夜ご飯も、お漬物とお味噌汁とご飯があればじゅうぶんだ、って。震災前はおかずを何品も作っていたけど、震災に遭ってからは、”少しのものでじゅうぶんだ。食べられるだけで、有難いんだ”っていうの。」
考えるとか、頭じゃなくて、心にひしひしと”何か大切なもの”を感じた滞在だった。
人生観が変わった
石巻で約2週間の滞在から戻り、東京でいわゆる「日常」に帰ってきたわけだが、なんだか釈然としなかった。ここ日本の海底には大きなプレートがあり、その上に成り立っている生活は、果たしてこのまま続いていく「本当の日常」なのだろうか。震災は誰にでも、そしていつでも、この瞬間にでも起こり得ることだ。
それを石巻で感じ学んできたのに、また「当たり前の明日」が来るなんてなぜ思えるだろうか。
わたしは調べて、すぐに新幹線に乗り込んだ。
向かう先は、軽井沢。
軽井沢は避暑地のイメージしかなかったが、実際には浅間山の噴火による溶岩でできた固い地層に位置しているため、地震大国日本にあって、地震がほぼ観測されない(あっても震度1、2くらいな)のだそうだ。
新幹線のデッキで、嵐のように電話をかけ続けた。不動産屋さんに片っぱしからアポイントを試みたのだ。
観光ですら行ったことのない土地。
不動産屋は森の中にあった。
そしてそこに、住もうとしていた。
続く