【論説】「選挙に行こう。」
※以前、地元新聞に投稿した文章です。衆議院議員選挙のとき。
※2016年5月5日執筆
私は、いまの福島県政が嫌いだ。大きな危惧感を抱いている。それはなぜか。福島県は東日本大震災で甚大な被害を受けた。早いもので5年も経過しているのに、復興はまったく充分ではない。さらに、「ニッポンのなかのフクシマ」から「セカイのなかのフクシマ」へと、全世界が福島県を注目したのに、その期待を裏切ろうとしていることも、拍車を駆けている。とりわけ懸念されるのは、福島県内の地域利害である。同じ県内であっても、風評被害の問題によって「ココロの地域差」が生じて、県民の気持ちが大きく引き裂かれた。つまり「例外状況」である。本来ならば、リーダーシップが強い地元出身の首長を中心に一致団結しなければならないはずである。ところが、ああ無情、ある民主党の政治家は知事選に立候補せず、逃げているのが福島県政の現実である。元・外務大臣ですら福島県政を担当できない。元・国家公務員(自治省出身)が県知事であり、官選知事であった内務官僚による、戦前の中央集権国家の再来のような印象を受けた。21世紀の地方自治体とは思えないレベルである。政治家によって、福島県民の郷土愛が、戦時下の天皇制国家のごとく、権力に利用されているのではないか。なお、政治家の質は、それを選ぶ県民の質であることも記しておこう。
福島県政140年を振り返ると、万事を「お上」にあずけて、選択の方向を自らの責任で決断すら出来ない、権力にすり寄る県民性が現れる。たとえば、安積開拓事業であり、鉄道敷設問題であり、そして原発誘致の問題である。いわゆる開拓者精神とはいってみても、とどのつまり利益誘導型政治の典型例であった。ここで確認したいのは、明治9(1876)年の3県合併で「福島県」が成立したこと、つまり近代の賜物なのである。そこにあるのは、明治政府が支配しやすいような行政区画の成立という歴史事実である。東電の原発問題によって、長い歴史と文化がある相双地域は壊滅的な被害を受けて、一部は強制移住を迫られた。そもそも本地域は原発の誘致地域という宿命を持ち、かつては莫大な富で潤った地域である。現在もなお、廃炉が地域の有力事業になっているという皮肉な結果となった。
ここで、視点を変えたい。福島県民以外の、日本国民は、この現状をどのように把握しているだろうか。個人差はあるかもしれないけれども、効果をあまり示さない放射能汚染水の対策をはじめ、一事件に血税を大量に注ぐことに反感をもつのも当然のことだ。社会保障費増大など、危急の課題も乱立している現在の国政である。いまのアジア情勢を見ると、近隣の国が武力に訴えていることに対して、自己防衛のためにナショナリズムが膨張化している。軍備増強が望まれ多大な国費が必要だと、与党は霞が関で叫ぶ。また、平和の祭典であるはずの「東京オリンピック・パラリンピック2020」では、より良い競技施設の建設のために多くの工事資源が東京に集中してゆく。福島県のことは忘れさられようとしているのか、答えは否である。
我々には、過去を悔やみ、未来を不安がる、暇(いとま)はない。いま・ここで、やらなければないことがある。先の大震災を通じて、100年スパンではなく、1000年スパンで広く概観できる政治力や統率力が必要となっていることに、気付かされた。今年の夏は、18歳まで選挙権年齢が引き下げられた、福島県の未来をかけた合戦が待っている。答えはシンプルだ。みなさん、選挙に行こう。