石子犬太

気晴らしに書き殴る

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  • Kによる手記集(無料版)

    何気ない日々の出来事を書いています。

最近の記事

名もなきチャイナタウン

 行き交う自動車のヘッドライトや街灯が、濡れた歩道を赤く照らしている。その中を傘を差した観光客が俯きがちに歩いてくる。探偵小説じみた味わいのある、ポランスキーが好みそうな風景。真夜中だというのに、十数人の群衆が路地に犇めきあっているさまは異様だが、高層ホテルが林立しているのだから、とりわけ不自然な光景でもない。繁華街から離れた、寂れた漁師町だ。ドブ川に挟まれた東京湾のほとりで、いったい何が獲れるというのか。  観光客は空港からこの駅に降りて、ホテルに向かうために死んだも同然の

    • 我が青春のブラックマンバ

       九歳からバスケットボールを始めた。俺が入ったミニバスには一つ下の妹がすでに所属していた。通い始めは土日の早練が厭で、サボる為にあらゆる口実を使ったが、ある朝に母親が力づくで俺を引っ張っていった。どうしてあそこまで頑なに、半ばヒステリックに、むずがる俺を連行したのか。教育熱心なイメージがないからこそ、あの朝の母を、いまでも鮮明に憶えている。  俺は瞬く間にバスケットに熱中した。偶然にも、住んでいたマンションの目の前には金網のバスケットコートがあった。リングは鉄製の渦巻状のもの

      • 巌窟にて

         京急蒲田から麻布十番に向かう電車の中で、ある事件の記事をボンヤリと読んでいた。池袋のラブホテルで布団圧縮袋に匿された女の死体が見つかった事件で、犯人の男はスーツケースを持って遁走していた。記事によると、女はSM専門のデリヘル嬢として働いているらしかった。  五番出口に向かう階段にスカーフを巻いた琴がいた。俺は声をかけずにしばらく小雨の降る大通りに佇む痩せた琴を見ていた。ふと自分がこれから女を殺して遺棄しようと企む狂人に思え、俺はフッと息を吐いて夜勤明けで重い脚を地上に運んだ

        • 巣の崩壊

           大学生の頃から部屋にあった群青色の革のソファを棄てた。近所のリサイクルショップで見つけたものだ。湿地に生える水草みたいな色と女体じみた柔らかさ、それと背もたれに点々とあった血飛沫のような染みが気に入って買ったのだった。四畳半には大きすぎたから、その上に布団を敷いてベッド代わりにした。女は狭いと不満を漏らし、二人で寝るときは俺が背もたれを抱きしめるようにして横になって眠ったりした。  真夜中に、ひとり汗みずくになってソファを運んだ。アパートの二階から駐輪場まで、子熊を抱えてい

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          62本

        記事

          冥土の土産

           風呂から上がると、親父が換気扇の前で一服しながら俺を待っていた。K、これ地図な、お前のバイトしてる店からまっすぐだよ、橋渡って、少し迂回するけど道なりにいけば着くから、いやァ参ったよ、膝から先が曲がらなくてな、香典はいらないから、線香あげて飯だけ食って、まァ小一時間で終わるよ、地味な格好なら何でもいいし。手書きの地図を受け取ると、部屋に戻って着替えた。黒いセーターに、黒い細身のジーンズ。いつもと変わらぬ格好だった。二千円だけポケットにねじ込んでアパートを出た。  指定された

          冥土の土産

          <映画> 運び屋

           大学生のころ、友人に或るアルバイトを紹介してもらった。場所は新宿、池袋、高田馬場と転々としいた。指定された時間にルノアールで落ち合うのが決まりだった。コーヒーはただで飲めた。夏に着慣れぬスーツが鬱陶しく、俺はアイスクリームの乗った冷たいココアばかり飲んだ。  新宿のルノアールは昼間からヤクザばかりで俺はいささか怯んでいた。隣にいる先輩だが歳下のNは暢気にストローで氷をかき回していた。そのカラカラという音が妙に響いていて、俺は厭なじっとりとした視線を全身に感じないではいられな

          <映画> 運び屋

          呼び出し

             西口に出た。高架通路の下で、二人組の若者がギターを弾いていた。ちょうどイントロか、と思い立ち止まったが、歌は始まることなく終わり、揃ってぺこりと頭を垂れた。二人とも背が高くてきれいな顔をした男だ。放っておいても歌など関係なく女どもが蝟集するだろう。段ボールでできた手製の看板が足元にかけられている。北海道から上京、ミキオとハルマ。まるで昭和の漫才師だ。茶髪の方が、どうもミキハルです、と声をはりあげた。思わず辺りを見渡したが、立ち止まっているのは俺一人だった。俺はミキハルに

          呼び出し

          雨音

           朝から雨が降っている。俺は雨音だけが聞こえる静かな部屋で在る短篇小説にとりかかっている。頭が重かった。きのうは、一日じゅう寝ていた。数えてみると、十七時間くらい睡ったらしい。時間を無駄にしたとも思うが、たぶん必要だったのだろう。百円の小説を書いている。たかだか百円の値でも、読んでくれる人は少ないだろう。にしても、百円、か。一編の小説を生むのに、どれだけの時間とエネルギーを費やすことか。それが、今どきの自販機では缶コーヒーすら買えぬ百円とは何たる不条理なことか。アルバイトでさ

          到来

           すぐそこまで春が来ているようだった。夜勤に出るのに手袋をしなくなり、昼過ぎに起きると花粉で喉の奥が痛んだ。歯を磨きながらベランダに出ると、人に抱きすくめられたときのような暖かみを感じた。金魚のポンヌフが死んだのは、冬がもはや葬りさられようとしていた矢先だった。  半年ほど前から、転覆病という奇怪な病に冒されていた。肺が浮子になってしまったのか、潜ろうとしても、すぐに横ざまに倒れて浮いてきてしまうのだ。水を換え、断食し、詐欺まがいの薬品を投入した。寒さが因だという話を目にし、

          濃霧

           店から出ると、確かに景色は霞んでいて、空港や高層ホテルの輪郭が薄ぼやけて見えた。それに春みたいに暖かく、どこか夢の中にいるようでもあった。だが環八と産業道路が交差する交番前で、俺は不意に現実と出会うことになった。信号を待っていると、一人の男が、ふらふらとした足取りでこちらに近づいて来ていた。明け方まで呑んでいたのだろう。そんな人間は珍しくもなかった。酔漢も信号を渡りたいのだろうし、茂みを挟んで警官も立っていたから、訝しんだりはしなかった。だから、ふと肩に手をかけられた時は、

          懐胎

           アパートに帰ってくると、玄関に見知らぬ汚れたズック靴があった。父親は仕事に出ているはずだし、靴もふた回りは大きかった。中に入ると、作業着の男が缶コーヒーを呑んでいるところだった。男は俺に気がつくと黙ったまま会釈した。見たところ同年代らしい、坊主頭の寡黙そうな男だった。男は缶を潰してポケットにねじ込むと、これから焼き切るんで、ちょっと響きます、とボソリと言った。大家の指示で、劣化した給湯器を交換して廻っているらしかった。業者が勝手に上がりこむのには馴れっこだった。俺は男の為に

          <映画> バーニング 劇場版

           うだつの上がらぬ、鈍重で、口の臭そうな、ダサい下着をずり下げては自瀆に耽る作家志望の青年、ジョンス。大学で文芸創作を学んだものの、書くのは習作ばかりで、未だ自分が書くべきテーマを見つけられずに無為な日々を過ごしている。……  街で偶然再会した幼馴染のヘミは、整形をして魅力的な女になっていた。奔放な彼女は、突拍子もなくジョンスに或る頼み事をする。  「わたしがアフリカに旅行に行っているあいだ、わたしの部屋で猫の世話をしてくれない?」  ジョンスはヘミの部屋を訪れ、コンドームを

          <映画> バーニング 劇場版

          ヨコハマ

           週の真ん中だというのに駅前の繁華街は異様に賑わっていた。ソープ街の串焼き屋に一時間、ドブ川沿いの串カツ屋に三十分、随分とせっかちにハシゴしたのはアルバイト先の同僚である五十半ばの上戸の意向によるものだった。酒手を稼ぐ為だけに会社勤めとは別にバイトをしている上戸は、氷の入った巨大なジョッキに焼酎と水を半々で注ぎ、鰐のようにガブガブと呑んでは出された食い物をあっという間に平らげ、さらに一杯呑んでしまうとさァ次だと立ち上がった。勘定は俺がビールを一杯呑む間にすでに済んでしまってい

          ヨコハマ

          闇と鉄

              牛みたいだね、と二週間ぶりにアパートにやってきた女が言った。顔も丸くて、髭も剃ってないし、どうしたの、おじさんだよ。俺は寝間着のままソファにもたれかかって思索に耽っていたのだが、その言葉に反応して自分の軀にふと目をやった。いや、見るまでもなかった。腹は胸のすぐ下からパンパンに迫りだし、顔も酒席のあとで浮腫んだように膨れ上がっている。何、ちょうど来月から減量しようとしてたとこだから。と俺は言って、女の買ってきた芋餡の入った鯛焼きを三つ平らげた。風呂の前に体重計に乗ってみ

          真夜中の疑惑

           この店には女の客がほとんど来ない。カウンターに並ぶのは、物流施設の作業員、工事現場の肉体労働者、タクシーとバスの運転手、年金暮らしの老人、スナックから流れてくる酔漢、べらぼう口調の漁師、疲れ顔の会社員、夜を徘徊する不良少年、何を生業としているか知れたものじゃないならず者、そんな奴らの溜まり場だ。たまに、事情を知らぬ空港関係らしきすらりとした韓国女たちがガヤガヤと入ってくる。必然として豚どもの視線を一身に集めることになるのだが、少し迷惑そうな顔をしながらも長いこと喋りに興じて

          真夜中の疑惑

          狩猟者

           チネチッタの名画座が「ディアハンター」を演っていたから、アルバイト先のベトナム女を誘ってふらりと観に行った。午後の三時五十分。夜勤者の俺にとっては、ずいぶんな早起きだ。睡りの足りていない、貧血気味のぼうっとした頭で若きベトコンたちの運命を眺めた。このディエップという女は英語が解らないし、字幕もたいして読めないはずだが、純粋に映画を愉しんでいるように見えた。ディエップはドンホイという、南北の軍事境界線の近くの町で生まれ育ったというのに、戦争の会話にはまるで興味を示さなかった。