濃霧

 店から出ると、確かに景色は霞んでいて、空港や高層ホテルの輪郭が薄ぼやけて見えた。それに春みたいに暖かく、どこか夢の中にいるようでもあった。だが環八と産業道路が交差する交番前で、俺は不意に現実と出会うことになった。信号を待っていると、一人の男が、ふらふらとした足取りでこちらに近づいて来ていた。明け方まで呑んでいたのだろう。そんな人間は珍しくもなかった。酔漢も信号を渡りたいのだろうし、茂みを挟んで警官も立っていたから、訝しんだりはしなかった。だから、ふと肩に手をかけられた時は、簡単な芝居を間違えた役者を見るような目でつい睨みつけてしまった。酔漢はだらしなく唇を歪めて笑っていた。あ、と俺は声をあげた。辞めてから五年は経っているであろう、アルバイト先の先輩だった。信号が変わった。

 まだやってんだァ、とMは俺の穿いている脂に汚れたコックシューズをちらと見て言った。洒落っ気のなかった髪は銀色に染まっていて、顎には黒々と髭が蓄えられていた。聞いた話によると、Mは沖縄に移住して仲間と呑み屋を開いていたはずだった。あれ、帰ってきてたんですか。Mは赤ら顔を垂れて照れくさそうに笑った。うん、先月ね、いま大変なんだよ、こう見えてさ、でも、Kちゃん見て安心したなァ、ちょっと太ったよね、そうだ、夜勤明けでしょ、ビール呑みたくない? 呂律が怪しいわけでもなかった。顔が赤黒いのは、もしかすると日灼けかもしれない、何年も沖縄にいれば肌の色くらい変わるだろう。俺たちは環八沿いをぶらぶら歩いて、てきとうな蕎麦屋に入った。
 Mがうって変わったように、悄然とした顔でビールを呑んでいるから、俺も黙ったまま蕎麦を啜った。何か聞いて欲しそうにも見えたが、詮索するのは苦手だった。やがてMは溜息を漏らした。瓶ビールを注いでやったが、Mがコップを傾けようともしないから、泡ばかりが満ちてしまった。Mは気にも留めずに一口舐めると、三百万かァ、と呟いた。
 Mは、三ヶ月前に帰省してきていた。店を友人と恋人に任せて、一週間この街に滞在していた。父親が死んだのだった。葬儀を終え、骨を拾い、瞬く間に二三日が過ぎた。その頃から、髭を剃る気力が無くなったのだという。呑み歩くような柄でもなかったが、悲壮が漂う実家にいたたまれず、つい繁華街に足が向いた。地元の友人が折よく呑んでいるという或るスナック、それは俺もいっとき通ったことのある、嘶く青毛の馬の看板を下げた古いスナックで、何人かの若い女が立ち働いていた。そこに、運命の女がいたのだった。名前を訊いて、苦笑した。見知っている女だった。俄かには信じがたかった。顔も薄けりゃ、胸も薄く、幸さえ薄そうな、柳の枝きれのようなあの女に岡惚れしたというのか。Mにとって、彼女は二人目の女体だった。

 凄いんだよ、あれがさ、初めてだったんだ、しゃぶられたのも、参っちゃったよ、わかるだろ、男ならさ、もう、溺れたよね、溺れきったよ、沖縄のエメラルドよりも、まさかドブ川の藻色がきれいに感じるなんてなァ、二人で橋にもたれてさ、女がおれの肩に小さな頭を乗せるんだよ、可愛くてさ、このまま飛んでもいいかなって思ったね、その日に沖縄帰ったんだ、帰ってもさ、わかるだろ、色褪せてんだよね、オキナワが、そそらないんだよ、相方の裸見たって、小麦色の、けっこういい軀してんだけどね、まるでだめ、わかるだろ、おれ、正直者だからさ、黙ってられなくて、ぶちまけたよ、泣かれてさァ、酷かったな、親まで出てきたよ、ヤクザみたいな刺青だらけの、怖かったな、勝新に似ててさ、ぶっ飛ばされたよ、彼女、おれと同じ歳だから、今年で三十七、四年付き合って指輪まで渡してたんだ、酷いよね、でも、示談金とやらで三百万だぜ、紙出されてさ、店の開店資金を親父の遺産でまかなえたところに、また借金、しかたないよね、手切れ金ってやつだな、で、向こうもあらかた片づいて、やっと実家に戻ってきたわけですよ。……

 いいんすか、こんな時間まで呑み歩いてて。Mは、手酌でビールを注いではひっきりなしに呑んでいる。俺は酔いと睡気で瞼が重くなってきていた。話を切り上げる頃合いだと思った。で、その子とはどうなったんすか。Mはヒステリックな笑い声をあげた。見てよこれ、酷いもんだよ。紺色のシャツをまくり上げると、肘の皮が剥けて血が黒く固まっていた。いやァ、きょうも店でさ、暴れちゃって、ぶっ飛ばされちゃったよ、怖い街だね、おれはただ、訊きたかっただけなんだ、いつ会えるのかって、また橋で並んでさァ、色んな話がしたいよ、こんどはほら、あっこの赤い橋から海を見てさ、ケジメつけたかったんだけどね、はは、このザマです、店の前からタクシー乗ってさ、一人で行ってきたよ、橋から見た月の写真でも撮って送ろうかなと思ったんだけど、霧が濃くてね、だめな時は何やってもだめだね、で、絶望しきって歩いてるところに、Kちゃんがいるんだもんな、いやァ、嬉しかったな。……

 Mを残して店を出た。濃霧は海からの風に流されたのか、街や人々の輪郭が蘇っていた。どうせ今夜も、Mは懲りずにあの青毛の馬のスナックの戸を押すのだろう。実は婉曲的に頼まれたのだが、同行する気にはなれぬ。俺もそれほど暇ではないのだ。だが、何もかもを棄てて女を追う潔さだけは羨ましくも感じた。裏切られた銀髪の気狂いピエロが、スナックの女と赤い橋のかかる東京湾のほとりでどんな結末を迎えるのか、興味と空想は尽きないのだが、きょうのところは夜勤に備えて睡ることにする。

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