アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所を訪れた記録
約600万人のユダヤ人が殺された、第二次世界大戦時のナチスドイツによる大虐殺。20世紀は「大量虐殺の時代」とも呼ばれているが、今もパレスチナ・ガザ地区ではイスラエル軍による一般市民や子供たちに対して無差別攻撃が続いているなど、虐殺の歴史は決して過去のものではない。
私が東ヨーロッパを中心に約1ヶ月の旅をする中で、絶対に訪れたかった場所の一つが、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所だ。
20世紀の歴史の中で最も暗い時代の一つを象徴するこの場所については、今まで多くの映画や書籍の中で目にしてきた。特に私は映画鑑賞が趣味で、大学時代から「名作」と呼ばれる映画を手当たり次第に観る中でも、アウシュビッツやホロコーストについて描かれた作品に出会う機会が数多くあった。
ゲットーを経て収容所に向かう彼らの運命や、銃やガス室によってあっけなく人が次々と殺されていく様子、痩せこけて骨と皮だけになった人々、物のように扱われ折り重なった死体……。人が人ではなくなるあの衝撃的な絵面は、おそらく多くの人と同じように頭の中にずっと残り続けてきた。どこか現実味を持たないような形で。
そんなホロコーストが起こった跡地を実際に訪れた時には、私は当時の歴史を遠く離れた地での出来事としてではなく、ある種の"自分ごと"として捉えることができるだろうか。何かを考え、それを未来に繋げることができるだろうか。私は実際にアウシュビッツを訪れる計画を立てる中で、訪問後に自分の中に何かしらの形での「結論」のようなものが得られるのではないかと考えていた。
今回はアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所や、ベルリンのユダヤ人博物館・ホロコースト記念碑の訪問記とそれを経て得た考えについてまとめめていく。
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へ
歴史上、最大規模のホロコーストが起こった場所として知られるアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所があるのは、ポーランド南部のオシフィエンチム市だ。
"ナチスが作った収容所"と聞くと、多くの人がドイツ国内にあるイメージを持つかもしれないが、実はアウシュビッツ強制収容所はポーランドに所在する。ドイツよりかは、チェコやスロバキア国境に近いこの街に、ヨーロッパ各地からユダヤ人をはじめとする人々が運ばれてきたのだ。
ツアー前日、私はチェコ・ブルノで乗車予定だった長距離バスが来ないというアクシデント(なのか?)に見舞われつつなんとか深夜にクラクフに滑り込むことができた。タクシーから眺める夜の街は綺麗に整備されている印象で、どこか静かだった。
翌日、車に揺られること約2時間でオシフィエンチム市に到着した。
アウシュビッツ博物館の入場口でツアーガイドさんと合流して、私は驚いた。ガイドの担当者が、アウシュビッツ博物館唯一の日本人ガイド・中谷剛さんだったからだ。
中谷剛さんはここアウシュビッツを訪れる人なら、おそらく多くの人が知る名前だろう。彼は日本語ガイドとして20年以上に渡りこの地でアウシュビッツの歴史を伝えてきた著名な人だ。
実はヨーロッパ渡航前から私は中谷さんのツアーに申し込んでいたのだけれど、連絡の行き違いで参加できないことになってしまっていた。そのため3日前に他会社の日本語ツアーにギリギリで申し込んで、アウシュビッツ強制収容所を訪れることができたのだけれど(基本的にアウシュビッツを訪れるには何らかのツアーに申し込む必要がある)、本音を言えば、中谷さんのガイドでこの地を訪れておきたかった。
だから、やむをえず別ルートで申し込んでもガイドが同じ中谷さんだったというのは、私にとって嬉しいサプライズだった。(聞くと個人で請け負うのとツアー会社から請け負う両方でやっているらしい)
中谷さんがガイドとして伝えたいことなどについて語っている、素晴らしいインタビュー記事はこちら⇩
ツアー参加者は私も含めて5名の日本人。新しく整備されたコンクリートの壁が特徴的な入場口を抜けて、まずはアウシュヴィッツ第一収容所に足を踏み入れた。
アウシュヴィッツ第一収容所を歩く
アウシュヴィッツ第一収容所は、ポーランドを占領したナチスドイツが、ポーランド軍兵営の建物を再利用する形で1940年に開所した収容所だ。元々の開所目的は、ポーランド国内の政治犯(反ナチス)や捕虜などを労働力として使うためだった。
後にホロコーストのためのガス室や第二収容所などが整備され、ヨーロッパ各国のユダヤ人を中心とした人々が連れてこられた。そして1945年にソ連軍により解放されるまで、この地でおよそ150万人が殺害されることになる。(アウシュビッツ以外でも、各地で約600万人のユダヤ人が殺された。)これらの数字は言わずもがな大きすぎる数字である。荷物のようにぎゅうぎゅうに貨物に押し込まれ、ここに連れてこられたほとんどの人は到着してすぐにガス室で毒殺された。
そもそも、クラクフに強制収容所ができることになった理由には様々あるが、その一つに交通網がある。ヨーロッパの中心に位置しており、各国に繋がる線路の終着地で鉄道の接続が良く、ユダヤ人を集めて大量虐殺するために都合が良かったのだ。何とも効率重視で残酷な理由である。
アウシュビッツ第一収容所跡地では、レンガづくりの建物の中に基本情報のパネルや写真、また人々の荷物などが展示されている。それに加え、ナチスによって人体実験が行われたとされる施設や、逃亡者や収容所内でのレジスタンス活動を行った人々が銃殺された「死の壁」、ガス室がある。
当時収容者によって隠し撮りされたフィルム写真の中には、野外で裸にされガス室へ誘導される人々の姿など、当時の残酷な状況が生々しく写されている。また、展示された人々の髪の毛(糸や靴下に加工するために刈り取られたもの)やメガネ、靴や鞄が山のように積み上げられた展示、さらに身体障害者の杖や義足などを見ると、あくまで一部分の展示にしか過ぎないのだけれどその一つ一つの命の重さが感じられてひたすら胸が苦しくなる。
また実際に使用されたガス室に入る瞬間は、足を踏み入れることに少しためらいを感じた。中にいたのは30秒ほどに過ぎなかったと思う。しかしコンクリートの壁に囲まれた空間の中で、多くの人がここで最期を迎えたのだいう事実を考えると心臓は恐ろしいほど鼓動を早め、身体の末端が凍りつくほど冷たくなるのを感じた。
中谷さんに連れられ、多くの展示品を見る中で、私の中で大きな衝撃の一つとなったのがクラクフの土地の「当時の気候」についてだ。
屋外に展示されていた当時の写真を見ると、アウシュビッツ付近が真っ白い雪で覆われていたのだ。そうだ、ポーランドの冬は寒い。中谷さんに聞くと当時は冬になると、0度以下の気温になることも多かったそうだ。夜には少なくとも氷点下15度にまで下がったと言う。
しかしそんな過酷な環境で、囚人達に与えられたのは、木綿のストライプの衣服と擦り切れた毛布のみで毎晩のように凍死者が出た。そんな状況を想像すると身の凍る思いがする。必死に毎日を生き延びようとする囚人たちの目に、白い空と雪はどのように映っただろうか。
地球温暖化の影響もあり、今は冬になってもそこまでこの付近の気温が下がることはないらしい。しかし当時の状況を理解しようと努めるには、今と異なる当時の環境についても考慮することが必要だと感じた。
また、中谷さんはツアーの中で、日本にもゆかりのあるマキシミリアン・コルベ神父の最期についての話をしてくれた。私は恥ずかしながら彼の生涯について知らなかったので、ここに聞いた話を残しておく。
コルベ神父は、長崎で布教活動を行なっていたこともあるポーランド出身のカトリック司祭だ。彼はユダヤ人ではないが、「カトリックの教えはナチスの思想に反する」とされ、アウシュビッツ強制収容所で強制労働に従事させられていた。
結核を患っていた彼にとって、若者でも耐え難い過酷な労働と環境は厳しかったはずだと言うが、同室の画家ミェチスワフ・コシチェルニャックと親しく話し合うことも多かったそうだ。彼は「あなたは、生き残って、ここの真実の姿を伝え続けるように」と言葉を残している。
ある時、収容所から脱走者が出たことで、無作為に10人の囚人が餓死刑(牢屋に閉じ込めて水や食料を与えず殺すこと)に選ばれたのだが、そのうちの一人の男性が「私には妻子がいる」と泣いたのだそう。その時にコルベ神父は「私が彼の身代わりになります、私はカトリック司祭で妻も子もいませんから」と自ら申し出て、その男性の身代わりとなった。
地下の独房で、他の仲間が食料や水を与えられず衰弱していく中、コルベ神父は彼らを励まし祈り続けた。独房に入れられてから14日後、最後まで生き残っていた神父は、執行人にフェノール剤を注射されて46歳でその生涯を閉じることになる。
彼の英雄的行為は、当時アウシュビッツ中に語られたという。数少ないアウシュヴィッツの脱出成功者であり作家のイェジー・ビエルツキ氏は、コルベ神父について次のようにコメントしている。
コルベ神父の最期の話は、当時どれだけの人に希望を与えただろうか。過酷な状況下でも、強い信念と良心に基づき他人に手を差し伸べたその姿は、彼の死後も「アウシュヴィッツの聖者」として語り継がれ、多くの人の心に残り続けている。
第一収容所の地下室の一室では、コルベ神父を弔う蝋燭が灯されていて、私は静かに手を合わせた。
ビルケナウ強制収容所(アウシュヴィッツ第二収容所)を歩く
1941年10月。被収容者の増加を補うために、第一収容所に追加して「ビルケナウ強制収容所(アウシュヴィッツ第二収容所)」が、新たに開所した。10万人規模の収容力があり、第一収容所よりも格段に規模が大きい施設だ。
またここは5基の大規模なガス室と死体を焼く施設を備えており、殺戮を目的とした絶滅収容所としての役割を最も強く象徴している場所と言えるだろう。
私たちは、死の門と呼ばれた監視塔を抜けて、鉄道の線路沿いを歩いた。歩きながらぐるぐるとあたりを見渡してみる。
「開けていてとても広大な土地だ」というのが直感的な感想だった。澄んだ快晴の空に、青々とした緑が茂る芝生、そして整備された道。歩いていると、不意にどこか自分が広い公園でも散歩しているかのような感覚にもなってしまう。
しかし歩いている景色の奥にあるのは、多くの人々が殺戮されたガス室や多くの人骨が捨てられた「死の池」、そして立ち並んでいるのは、人々が実際にその中で飢えて苦しんで、それでも仲間たちと励まし合って必死に生きようとしていたバラックなのだ。
その揺るぎない歴史の跡が、青空の下で何よりも重く暗い説得力を持ち、目の前にずんと存在していた。
中谷さんはアウシュビッツに運ばれてきた人々、そして死んでいった人々について "想像すること"が必要であると話していた。
当時この地に連行されてきたのは、約90%の大多数を占めるユダヤ人をはじめ、侵略時に抵抗したポーランド人やソ連軍の捕虜、ジプシー、同性愛者、売春婦、身体障害や精神障害を持った人……などナチスが "社会的に抹殺したかった人々"である。
貨車に何日も閉じ込められ、過酷な環境で荷物のように運ばれた人々は、この地に着いてすぐ「命の選別」を受け、価値なしと判断された人々はガス室で殺戮された。
一方、ガス室での即時殺戮を免れた人々は、ストライプのシャツに「ユダヤ人」「政治犯」「一般犯罪者」「移民」、さらには「同性愛者」などを区別するバッジがつけられ、強制労働や人体実験の検体として従事することになる。囚人の属性をバッジをつけて明確に区分したことによって、囚人内部でグループ化し分裂することもあったという。
当時使われていたバッジと言うと、ユダヤ人の区別には現在のイスラエル国旗にも使われている「ダビデの星」の腕章が使われていたことが有名だが、ナチ強制収容所の中ではそれ以外の人も区分され、それらのバッジが仕事を割り当てる際に利用されていた。
近頃も、差別にまつわる議論において、よくこんな言葉を耳にする。
しかし忘れてはいけない。差別は、常に"自分自身と他者を区別すること"から始まるのだ。
自分は女性ではない。自分は老人ではない。自分は障害者ではない。自分は外国人ではない。自分は同性愛者やトランスではないーー。
果たしてその”区別”をする際に、自分の中にそこに付随する何らかの意味合いが生まれてはいないか。そこには不均衡な力関係が隠されていないか。私たちは、その実態を真摯に見つめるべきである。私たちは、自分たちには「関係ない」「違う」と考えた時点で、いかに容易く"想像すること"を放棄してしまうだろうか。
ヘイトとガス室は一本の線。「区別すること」の危険性
今回noteを書くための情報収集をする中で見つけた、中谷さんのインタビュー記事タイトルの一つに「ヘイトとガス室は一本の線」とあった。まさにこれは実体験としての戦争やホロコーストを経験していない人々が心に留めておくべき言葉であろう。
区別は容易く、"自分はそうでない"人々へのヘイトに繋がる。そしてその線を繋いでいくと、アーリア人至上主義に基づいたナチスのような優生思想に、そして大量虐殺をおこなったガス室まで簡単に辿り着いてしまうことに注意が必要だ。
日本では今どうだろうか?クルド人や在日韓国人といった特定の民族や国籍の人に対するヘイトは止むどころか、むしろ日本の経済状態や暮らし全般についての不満が増すにつれて、人々の差別心は強くなっているように思う。
ここで、ユダヤ人の悲痛な歴史を振り返ってみる。ユダヤ人はナチスの迫害が進んだ当時、住んでいた土地からは追い出され、パスポートを奪われ、どこにも行く場所がなくなってしまった。しかし、当時どの国も彼らに手を差し伸べることはなかった。それらの結果、彼らは大量虐殺に、あのアウシュビッツの終着駅に、辿り着く結末となったのだ。(もちろんナチスだけではなく、当時日本もアジア各国で無数の人々を数多く殺してきたことは忘れてはいけない。また今も、故郷を追われた難民は世界中で約1億1730万人いると言われている。)
私はこのような虐殺の歴史を二度と繰り返さないためには、私たちの心の中にある、小さな区別やそれに伴う「差別心」を見つめ、その根を丁寧に切っていく作業が必要だと考えている。そしてそれを行うべきは私たち一人ひとりであり、他の誰にもその作業を託すことは出来ない……。
ドイツ・ベルリンで追悼の地を訪れる
ベルリン・ユダヤ人博物館
ポーランドを離れた後、私は少しの間ドイツ・ベルリンに滞在し、ユダヤ人博物館やホロコースト記念碑を訪れた。
2001年に開館したユダヤ人博物館では、ドイツにおけるユダヤ人の歴史や生活の記録の収集・展示を行っている。敷地内をジグザグに走るような特徴的な建築は、ホロコースト生存者の両親から生まれたユダヤ系アメリカ人建築家のダニエル・リベスキンドが設計したものだ。
外観だけでなく内部も特徴的で、建物の中に入るといくつかの廊下が奇妙に歪んでいて少し平衡を失っていることがわかる。これは歴史の中で彼らが置かれた不安定な状況を表現したものだ。そして、各廊下に続く訪問ルート「亡命の軸」「ホロコーストの軸」「継続の軸」は、第二次大戦中のユダヤ人の3つの運命を示している。
そんなユダヤ人博物館の建築の中で一番印象的だったのは、「ホロコーストの軸」だ。
床だけが徐々に上がっていく廊下「ホロコーストの軸」には、ホロコースト犠牲者の遺留品が並んでいて、その廊下を進んだ先には高さ24mの煙突状の空間「ホロコーストの塔」が聳え立っていた。
黒く重い扉を開けて塔の内部に入ると、そこにはあてのない絶望を感じさせられる空間が広がっていた。コンクリート打ちっぱなしの閉鎖された狭い塔の内部は暗く、はるか上に空いた隙間から自然光が入るのみ。壁沿いに並んだ来館者はその微かな光を見つめて、ただ立ち尽くすことしかできなくなる。
ふと触れたコンクリートの壁は恐ろしいほど冷たく、私は思わず手を離した。冷んやりとした指先の感覚は、その後も私の心の淵にしばらく残っているように感じた。
「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」
ベルリンの歴史的なシンボルでもあるブランデンブルク門の南には、「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑(通称:ホロコースト記念碑)」がある。
広い敷地の中に一定間隔で石碑がずらりと並んでいるこの記念碑は、制作者の強い意図を感じるものだった。
記念碑に立ち入ると、それぞれ高さが違う石碑がずらりと並んでいる。私はそれら一つひとつが大きな棺のように見えて、「ホロコーストで犠牲となった無数の人々を埋葬する様子を表現しているのかもしれない」と解釈した。
しかし記念碑の奥へ足を進めていくと、その解釈は変わっていった。ぐねぐねとした道で足元が少しおぼつかなくなる中、道は段々と下に傾斜し、周囲の石碑は段々と高くなっていく。いや、石碑が高くなっているのではなく、私の立ち位置が下がっていくことで"地面に埋もれていた分が見えてくる"と表現した方が正確かもしれない。
奥に進むにつれて、石碑は4.5mほどの高さにまでなった。ふと立ち止まって上を見上げると周囲を取り囲む石碑の存在感に圧倒され、呑み込まれそうになる。足元の道が不自然にうねっているせいで不安感や緊張感が増していき、等間隔に並んだ石碑の中で一人迷子になったような気持ちにもなった。
私はここでも、中谷さんが話していたような"想像力"について問われているように感じた。約600万人というホロコースト犠牲者の数をどう捉えるか。確かにあったはずの彼らの日常。仕事や勉強。彼らの好きだったことや夢。そして一人ひとりの死について。
膨大な犠牲者数の、その数字の裏にあるものを、想像すること。その小さな勇気とその奥の場所にある広大で深い絶望から、私たちは世界平和について考えることを始めるべきかもしれない。
"終着地"ではなく、はじまり。ここから世界平和を考える
最後に、アウシュビッツの展示についての個人的な考えとまとめを述べていく。
アウシュヴィッツを訪れる前は、ショッキングな展示が多いのではないかと予想していて、かなり心の準備をして訪れた。しかし実際の展示は、(この表現が果たして状況を正しく表現できているのかは分からないけれど……。)正直に言うと、ある種淡々とした印象を覚えた。
ツアーではほんの一部の展示しか見ていないという理由も大いにあるだろう。中には2日間でみっちり展示を回るツアーもあるらしい。
博物館での経験について考える中で、私は以前、韓国・釜山で「日帝強制動員歴史館」を訪れた時のことを思い出した。月曜日の午前中で、展示室に私一人しかいなかったこともあるのだろう。また、自分が日本人であるという意識も大いに影響しているだろう。インタラクティブな映像や音声、模型などの複合的な展示が圧倒的な力を持って、その時の心の隙間に入り込み、私はしばらく歴史の重さから抜けることができなくなる経験をしていた。
アウシュビッツ博物館でも、そのように複合的でメッセージ性の強い展示方法を取ろうと思えばできるのかもしれない※。しかしここアウシュビッツでは、歴史で起きたことを当時のまま残すことを大切にしており、遺留品をはじめ残されたバラックなどの建物は丁寧に修繕され、公開されている。
(※釜山の博物館の展示が過剰である、といった主張をしたい訳では決してないということは強調しておく。)
私は青空の下、丁寧に整備された収容所の道の上を歩いてる時に、もしここで起きた出来事についてあまり知識がない人がこの土地を訪れたら、ただの "手入れが行き届いた綺麗な土地"のように見えるかもしれないと危惧したのだった。
しかしすぐにその考えを振り払った。そしてツアー帰りの車の中では、このように考えるようになった。
「あくまでアウシュビッツの展示は、出発点に過ぎないのだ。」
私は初めアウシュビッツ強制収容所を実際に訪れれば、自分の中での虐殺という負の歴史についての考えが、何か"終着点"のようなものに辿り着けると思っていた。しかし決して、そうではなかった。
アウシュビッツを訪れることで一つの学びを終えるのではなく、訪問をきっかけに新たな学びを深め、また改めて物事を考えていくべきなのだ。本を読んで新しい知識を得ても良い。生存者の声を保存したドキュメンタリーを観ても良い。ネットで戦争やホロコーストにまつわる記事を手当たり次第に読んでもいい。自分が見たことや感じたことについて、人と話してみても良い。
ヨーロッパ中の子供が中高生のうちにこの地を訪れるというように、ここアウシュビッツは次世代への教育の場としての大きな役割を担っている。そしてここで何があったのかを理解するため、この歴史を自分ごととして教訓にするには、知識と想像力が求められている。
想像力を働かせ、自分なりの考えをまとめていくこと。そして今世界で起きている問題に目を向けていくこと……。アウシュビッツを訪れた経験はきっと、このようにして「はじまって」いく。
中谷さんはツアーガイド中、何かを断言するというよりかは疑問形で、私たちに多くのことを問いかけた。ホロコーストの歴史をどのように考えて、どのような想像力を働かせ、今後どのように生きていくのか。それは私たち一人ひとりに委ねられている。
最後に、私の大好きなソウル歌手・Samm Henshawが2022年に発売したアルバム『Untidy Soul』から「Thoughts and Prayers」を紹介したい。今もなお続く紛争や差別に重なる問題と絡めて心の弱さをさらけ出すような……。そして、聴く者の在り方を問いかけるような曲だ。
全体的な注釈として、このnoteの内容はあくまで個人的な記録や考えに過ぎないということを記しておく。ニュアンス的な部分は後々書き直すかもしれない。
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