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歌会始の日に:岡本真帆『水上バス浅草行き』レビュー

 ずっと気になっていた岡本真帆の第一歌集『水上バス浅草行き』を入手し、ゆっくり読了した。歌集ゆえ、二度、三度と読み返してのちレビューをアップすべきだが、ちょうど同じ日、皇居で今年の歌会始が催されたとの報があり、皇族方や、召人、選者とともに今年の入選者10人の歌を目にしながら、心にうつりゆくよしなしごとあり、これを書きとめようと思い立ち、拙稿をものすこととした(いささか大袈裟かな)。
 新進の歌人岡本真帆を知ったのは、多くの方と同様、「ほんとうにあたしでいいの?ずぼらだし、傘もこんなにたくさんあるし」だった。SNSで「バズり」、「傘」を別のものに置き換え楽しまれている、とのこと。日本古来の表現形式が肩肘張らず引き継がれ、面白く享受されていること、誠に喜ばしい限り。テレビ番組のおかげでいまや隆盛を誇る俳句とともに、五七五、五七五七七の表現技法が垣根低く誰にも親しい心情表出の手段として愛好される現況は、韻文に明るい未来があるように思われ嬉しい。岡本真帆の一首がもたらした、一部かもしれないが巷間の余興は、伝統力の深淵さをあらためて体感させてくれる現象である。
 歌集は、終始平明素朴、これらが「今」なのかと教えられた。高齢者である自分には残念ながら持て囃された一首ほどに内面共振させられる作はほとんどなかったが(歌人が愛犬家であることは、よく分かりました)、歌集が刷を重ね歓迎されていることは喜びたい。約40年前、俵万智が『サラダ記念日』でもたらした鮮烈さほどの熱量を感じられないのは、おそらくただただ年齢のせいなのだろう。
 時代を映し出す平明さ、ということを感じながら歌集を読み終え、webで報じられた歌会始の御製や入選作を受け止めてみると、抒情の重さより分かり易さ、ということが短歌の現在の基軸なんだろうなとの印象で、いささか複雑な思いを持った。
 御製はじめ皇族方のお歌は、いずれも古語文法を踏まえられながらも内実、抒情とも平明。現在の歌道指導の態勢がどう構築されているのか何ひとつ情報を有しないが、縁語、掛詞、序詞、本歌取りとは無縁であること当然ながら、それぞれの来し方、ある風景が三十一文字の調べにのせて表出されている。選者からして全員が高尚難解なものなく、個人的印象では、召人の三田村雅子氏のみ、やや艶っぽく気を吐いていらっしゃるようお見受けした。

一人寝の夜の寝覚のさびしさにみじかき夢のかけらを拾ふ

入選10作では、昨年逝去された小澤征爾氏への個人的思い入れあって、松本を世界有数の音楽祭の街に育て上げた(いまそれが継続危ぶまれているとの報に胸痛めているのだが)事績を寿ぐ一首と若々しい抒情を紡いだ宮崎の16歳の一首とが胸に滲みた。

マエストロ小澤の夢をはぐくみて楽都となれり山岳の街

ペンだこにうすく墨汁染み込ませ掠れた夢といふ字を見てる

それから、もう一首、国会議事堂の壁に隠れたアンモナイトによせて、今年のお題である「夢」を現況の政治への憂いと照らし合わせ痛烈に批判したお作に、よくぞ選ばれたと快哉の感に膝を叩いたことを付記しておこう。

まだ夢を見るのだろうか議事堂の壁に隠れたアンモナイトも

 明治以降、与謝野鉄幹・晶子夫妻と正岡子規とにより革新され、高崎正風、佐佐木信綱ら守旧派との切磋琢磨を嚆矢として見事に近代化を実現し今に至る近現代の短歌を思う時、現況の「平明さ」それ自体を、悪いとかつまらないとかまでは言わない。しかしながら、抒情としてのありようについては黙して受け入れるわけにはいかないな、と日々思わないではいられないでいる。もっともっと情趣深くあって欲しい。自ら実作せず何を言うかと叱責されそうだが、鑑賞者には鑑賞者としての希いがある。

 振り返ればあまたの歌歌に心慰撫され、励まされてきた。それらは、いずれも定型の調べに託された抒情だった。
 啄木の若かりし頃の故郷の城址で空に吸い込まれた心情と長じて社会・世相を痛烈に攻撃した精神や、寺山修司がマッチを擦りながら国について切迫した想いに駆られたことを、われわれは深く重く受け止めて来た。その他書き出せばキリがない。そうした共鳴、共振の意義に思いを致すとき、「平明さ」が優先され抒情が脇に追いやられている風があるとすれば、そうした現況を良しとするばかりの担い手たちに勘案熟慮を求めたい。13年前の東日本大震災では、短歌の抒情が心に深く沈潜するばかりであった傷跡を救ったじゃないですか。そのことを強く言挙げ、平明さと共により深い抒情の表出をこそ現代短歌に大いに期待したい。

亡くなりし子の落書きに手が止まるここに確かに君はいたんだ
       朝日新聞「うたをよむ」から

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