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川村元気氏への公開質問状:映画『四月になれば彼女は』レビュー

 今春公開の川村元気原作・脚本の邦画『四月のなれば彼女は』を配信鑑賞。先に三谷幸喜監督・脚本の『スオミの話をしよう』について、「長澤まさみの無駄遣い」と辛口批評を書いたばかりだが、本作鑑賞後も同様の印象で、いやそればかりか、あわせて「河合優実まで無駄遣い」と再度嘆息レビューをアップしようと書き始めていた。しかしながら、スタッフに親しくご縁を頂戴している知人複数あり、いささか複雑な思いを拭いきれず、なんどもキーボードを叩く指先に躊躇うものがあった。そこで、標題のようなスタンスであらためて原稿を見直すこととした。
 拝察するに、現況の邦画界にあっての川村元気氏の存在、発言力にはそれなりの重みあって、発想も企画もほぼ思うとおりに具現化しうるのではないだろうか。そう勝手ながら思い込んでの発信となるが、業界内事情を知らなさすぎるとのお言葉があれば虚心坦懐に受け止めたい。
 『四月になれば彼女は』は原作先行の映画化作品であるが、川村元気氏にあっては、まず発想があり、企画に進み、原作連載、上梓、映画化の行程表が設定されたのではないかと思われる。だとしたら、小説と映画との、このあまりの乖離は何故生まれたのか、そこをこそ問いかけたい。共作とはいえ脚本にも関与されていらっしゃる。どう判断され、主題すら異なると言いたくなる映画脚本となったのか。自在に企画が具現化できる立ち位置あって、このたびの仕上がりとは如何?
 登場人物ほぼ全員、原作でキャラクターデザインされていた個々人の裏というか闇の部分そっくり抜け落ちた人物像となっている理由がどうしても理解できない。また、弥生が動物園勤務の飼育員であることも妹の純がパチンコ店勤務であることも戸惑うばかり。純には、せめて藤代と危うい関係であってほしかったし、その演技を河合優美で観たかった。さらには、春と弥生とを出会わせるとは。物語の中核をなす不在感そのものが損なわれてしまっている。タイトルともに響いてくれなければならないサイモン&ガーファンクルが、映画では全く鳴りもしない。河村元気さん、あなたはなんでも具現化できる映画人でしょ。ご自身の原作を映画化にあたり、かくも表層的なものとした理由はなんなんですか?大人の事情なんでしょうか?
 原作と映画とは別物。そんなことは百も承知。しかしながら、そもそも一体の企画だったのではないのでしょうか?別サイドの人が、原作に惚れて、映画化を依頼してきたわけではないでしょう。なぜ、カニャークマリの朝日が大写しにならないのですか?技術的に難しかったのか、あるいはロケの許可がおりなかったのでしょうか?
 エンディングの藤井風は、素晴らしかった。しかし、実にそれだけです。この仕上がりでは長澤まさみも河合優美も活かしきれてません、いや、気の毒です。伊予田春に扮した森七菜のためだけの作品だったのでしょうか?
 あまりにハテナが多すぎるので、本作につきましての映画評としての点数はなし、無星(むぼし)とさせていただきます。


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