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切迫感あふれる叫び:モハマド・ラスロフ監督『聖なるイチジクの種』レビュー

 どう書けばいいのだろう。われわれ、と人称を拡大することが許されないのなら、この私はと一人称で記すが、本作を生み出すような切迫した時空で日々を紡いではいない。今日も、この同じ地球という場で、闘い、苦しみ続けている人々がいることを頭では理解していても、そのことに対してなにがしかしようなどとはしていない。それをもし不作為と責められるなら、それに返す言葉など、なにひとつ持たない。
 まもなく日本公開となる『聖なるイチジクの種』を試写の形で観て、しばらく何のリアクションも出来ずにいた。観たことをスルーするしかないかな、とさえ思った。それほどに重い作品だった。
 長尺である。ドラマ、映画という形式を用いての切実な叫びである。興味関心のキッカケは、去年のカンヌでの審査員特別賞受賞だった。モハマド・ラスロフ監督の名は、ベルリン金熊賞の『悪は存在せず』で当然知ってはいたが、当時はコロナ禍の真っ只中だったこともあり東京国際映画祭でのジャパンプレミアムを見逃し、その後全く気にせず縁がないままになっていたし、映画製作で逮捕、という現実も遠い国の出来事として身に引きつけることはなかった。そのことでも責めを負うべきなのだろうけれど、自分自身、小言幸兵衛たることをよしとしてしまっているので馬耳東風である。
 167分かけて進行するドラマは比喩でしかない。この枠組み、座組みでラスロフ監督が突きつけるのはイランの現況である。巻末の小さな画面にいくつか映し出される姿は解放なのか。美しい遺跡に埋没する、娘が言うところの体制側の父の姿に、監督の目指すものは、メッセージは明瞭である。しかも直接手を下すのは、いや、そもそもの契機発出からしてキーパーソンは最も年少の高校に進学する次女であり、そこに監督の希望が託されている。
 どれほどの観客に届くのか。まるで予見できないが、世界と渡り合う気概、気力あるなら必見、熟考されるべき一本である。

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