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シェアハウス事情その⑥~閑話休題~

 さて、5回にわたりシェアハウス事情を語ってきたが、わりと真面目な語り口になってしまったので、少しだらだらしたい。今回は、社会人の青春について考えてみよう(早速つまらないとか、言わないで😭)。

 僕は人を育てる仕事をしているのだが、それは裏を返せば自己鍛錬の日々でもあるわけで、しかも職場の役割自体もだんだんと職場改善とか、環境設計になってきたせいもあり、自分の中でオンオフをつけづらい日々になっている。

 ましてやこのコロナもあり、この暑さも雨もあり、休みをようやくとれても、すっきりと遊べる感じでもなかったりする。休みがとれても、結局資格の勉強やら映画鑑賞で一日が終わることも多くて、ストレス解消に苦労している。

 シェアハウスの仲間はノリも良い方ではないので、「キャンプしよう」とか「一緒に旅行しよう」とか、パリピっぽいことに連れ出すにはなかなか苦労する(先の修学旅行ですら、準備に一か月かかり、日程調整も大変だった)。まあとは言え、仲間と呼べるやつらがいるのすら幸運なのだから、文句ばかりも言ってられない。

 「自由」っていうものは、つくづく厄介である。同じ時間を過ごしていても、「もっと有意義にできたかもしれない」「この先どう生きたら良いのだろう」「何がよりよい選択なのだろう」と思い悩まなくてはならないし、選択と行動に責任が伴う。更に言えば、本当に「自由」、つまり本人の意思のままに判断できる状態というのはまれなもので、お金や義務や人間関係等、それぞれの状況によって判断は左右されるから、あくまでも「最善」をとるしかない。大学の頃は、わりとそれを真に受けて、綱渡りをしながら生きているような気分で毎日を生きていたときもあった。案外真面目過ぎるからこそ、その思考から逃げるために、若者は酒やら自己嫌悪やらうつ病やらに染まるのではないかと思っている(シェアハウス住人は決してそんなことはない。と、本人たちは思っている)。

 そして案外、そういった若者は「自分は絶対大丈夫。一線は超えないさ」的な謎の自信を持ち合わせているので、自分は片足をそろそろとあっち側に突っ込んでいるにも関わらず、誰がなんと言おうと習慣は変わらなかったり、根底にある自己嫌悪や自信喪失にしがみついて離れなかったりする(決して、特定の誰かのことを言ってはいないぞ)。

 自己嫌悪は麻薬だと個人的には思っている。それがあれば、一定数の人から心配されたり慰められたりできるし、人が自分から離れていっても「自分が悪い」「自分の能力不足」と、全て「自分」のせいにして人との関係性構築のプロセスを丁寧に行う面倒さから逃げられるし、何より限界や壁から目を背けることができる。そして、友達の幸福そうなインスタグラムを見て傷ついたりする必要もなくなるのだ。

 それにしても、インスタにディズニー行った画像とか載せてるのは、本当にけしからんと思う。終戦後の日本人は確かに「機会の自由」「平等権」「幸福追求権」を得た。だが、明らかにパリピとインキャの溝は存在している。二項対立で一概に捉えられないのも分かってはいるが、何故同じ時を過ごしていても、「羨ましいなあ、パリピ」という現象が起こるのか。

 少なくとも、修学旅行では、パリピがやりそうなことは大抵やったつもりだ(夜更かしとか・・・夜中にお酒飲むとか…夜更かしとか…誕生日パーティーとか…夜更かしとか・・・)。ていうか、寧ろ僕らは、精神年齢が高いので大人の趣味を好む、ある意味でのギフテッド集団だからこそ、普段はパリピからの疎外感を抱くのではないか。
 だからといって、僕らを「おじさん」と呼ぶのはやめてよ・・・お嬢さん・・・(終わり)

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