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眠れなくなった日。
初めて「眠れない」という感覚を覚えたのは、小学校4年生の頃だった。
夏だったか冬だったかの休みに、いつも泊まりに行っていた親戚の家。
六畳二間の部屋で、私、母、親戚のおばさん2人くらいが、布団を並べて眠る。
その日私は、キティちゃんの赤いパジャマを着て、大人より先に布団に入った。
テレビの音が漏れ聞こえて来て、それを小耳に挟みながら、いつもはいつの間にか眠っていた。
親戚の家には、昔の家によくある、30分ごとに鐘がなる時計があった。
00分にはその時間の回数、毎30分には1回、重々しい鐘がなった。
布団に入ったのは、多分9時くらいだったろうか。
そこから何だか目が冴えて、何度も何度も鐘の音が耳に届く。
鐘の音の数を数えたら、現在の時刻が分かってしまうので、心の中で何か熱心につぶやく事で、鐘の数を数えないように努めた。
それほど、「眠れない」「遅くまで起きている」という事実が、恐怖で仕方なかった。
何度目をつぶってもいよいよ目は冴えてくるばかりで、私は遂に母親へ、「眠れない」と訴えた。
横になってテレビを見ていた母は、何でもなさそうに「じゃあ、1000まで数えたら?」と言った。
1000なんて、とてつもない数字だ。
100を10回数えるなんてあり得ない。
母はきっと、そんなとんでもない数字を数え始めたら、勝手に眠くなるはずだと考えたのだろう。
私は数え始めた。
途中、テレビが消えて、全員が布団に入った。
母か誰かの寝息も聞こえて来た。
でも私は、眠らずに1000まで数え切った。
とても数え切れないと思ったのに。
皆が寝静まった今、母にはもう、「眠れない」と訴える事はできなかった。
私は絶望した。
このまま一生眠れないのではないかと思った。
「寝なきゃいけない」という思いが、いっそう不眠に拍車をかけた。
普段から妄想する事が大好きなのに、そういう時に限って、何も楽しい妄想が浮かばなかった。
鐘の音はまだまだ聞こえる。
結局何時まで起きていたのか、いつかの鐘を最後に、私も眠りについた。
その日から時々、「眠れない」日が訪れるようになった。
親戚の家だけでなく、実家でも眠れない日があった。
例えばある土曜日の夜に眠れなくなると、また来週の土曜日にも眠れなくなりそうで怖かった。
今思えば、何がそんなに怖かったのか。
きっと、躾が厳しくない家庭には、意図的に「遅くまで寝ない」子供もいただろうに。
そうして始まった私の、いわゆる「不眠症」は、多分、今でも続いている。
翌朝早く起きなきゃいけない時に眠れないと思うとプレッシャーだけれど、それ以外の時には、気楽に構えて、携帯を弄りながら眠くなるまで過ごしている。
大人になった今は、夜更かしが好きになった事もあり、「眠れない」事への恐怖感はだいぶ無くなった。
いくら眠れなくても、一生寝ない人間などいないのだから。
でも、あの時の自分に襲った恐怖感は、不眠に対する恐れだけで構成されていた訳ではないように思う。
人は本質的な意味で言うとやっぱり1人なのだとか、人間はいつか死ぬ生き物なのだとか。
どんな出来事も突き詰めれば大したものではないということや、生きている意味などどんなに探してもどこにもないということ。
そういう考えの断片が、眠れないという事実とともに、恐怖と化した。
そして今、不眠の恐怖は消えても、また別のそういった、生きる事へのどうしようもない不安は、拭い去る事が出来ていないと思う。
Welcome to the life.
でも人生とは、或いはそういうものなのかもしれない。