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小さな不幸から生まれる大きな幸せ
『FlyFisher』2015年4月号
僕は釣りを初めて人が変わり、釣りを続けて人が変わった。
誰よりも先に川へと夜明け前に車を走らせ、前を走っている車は同じ釣りに行く人だろうかと一人勝手に焦って運転していた。釣り未経験者を釣りに誘うなど考えもしなかった。自分が愉しみたい一心であり、人に一から釣りを教えたりするような心の余裕など持ち合わせていなかったのだ。
本当は素直で、協調性に富み、他人を慮る人間だった善良な僕が、釣りを始めてからは何とも自分勝手な人間に変わってしまっていたのである。
ああ、釣りとは人を変える恐ろしいものなのだ。
それがどうだろう。
解禁が過ぎても暖かくなってから行けばいいやと思うようになった。出かけるのも川に昼前に着けばよしと思うようになった。
誰よりも先に川へ立って魚を毛鉤に掛けようとも思わなくなった。
釣友の狙っていたポイントに先に自分のフライを流したり、「このフライを使いなよ」といって五月に十二番のバカデカいテレストリアルを五個も気前よくプレゼントしたりする僕はもう過去のこと。
今や釣りを始める前の本来の善良な僕に戻ったのである。
さて、僕自身への自戒も込めて紹介したいのが『オメラスから歩み去る人々』。アーシュラ・K・ル=グインの短編小説である。
誰もが幸せに暮らすユートピア、オメラス。規則も法律も驚くほど少なく、国王のような人々の上に立つ地位も無い。経済も秘密警察も暴力も無い。我々が考えうる幸福という概念では到底説明出来ない高次のユートピア、オメラス。
どのようにその幸福が保たれているかは皆が知っている。
それは一人の少年が存在しているからなのだ。
オメラスが幸福な世界であるのは、世の不幸すべてを独りの少年が背負っているからにほかならない。
オメラスの人々はその少年を知っている。
その一人の少年を幸福に導く事が、オメラスの多くの人々を不幸にさせることも知っている。だから多数の幸せを守るために一人の不幸に目をつむる。
人々はその現実を自らの目で直視した時、ただ静かにオメラスから立ち去るだけなのである。
『ハーバード白熱教室』のサンデル教授が『これからの「正義」の話をしよう』で本書について言及した、少数の犠牲によって多数の幸福を享受するような〝最小不幸社会〟。少数の不幸を知っていながら素知らぬ顔で自らの幸福だけを甘受する社会は、果たして幸福なのだろうか。
たった数ページの短篇がこれほどまで現在社会への深い問題提起となることに、小説という言葉の力に改めて驚かされるのである。
僕はもう釣友の釣れない時の不幸な顔を愉しもうとは思わない。友人が狙っているポイントは彼に譲ろう。十二番のテレストリアルは夏になってからプレゼントする事にしよう。これからは互いに釣れるように、今そのときを互いに愉しもう。
そうだ、釣りをしない友人も誘おう。
釣り方も教えてあげよう。
これは僕にとって大きな変化だ。
釣りの楽しみ方が変わったのだ。
だって、初心者が釣れない時に自分が釣れればとてもカッコいいじゃないか。
『風の十二方位』
アーシュラ・K・ル=グイン/著 小尾芙佐/〔ほか〕訳
ハヤカワ文庫 1,231円 ISBN:978-4-15-010399-6
『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』
マイケル・サンデル/著 鬼澤忍/訳
ハヤカワ文庫 972円 ISBN:978-4-15-050376-5
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