光の粒の時間
しばらく前まで絵のレッスン数日前になると、どうも音大時代の癖で「"あれもこれもやっておかねば先生に申し訳ない" 的心理が働く」というか「レッスンが成立するために最低限見せられる体裁?を整えるのにあくせくする」···みたいな所がありました。
音大時代の私のピアノ師匠は特にスパルタ方針だったので(音大の先生もタイプ色々)、宿題の曲数も多い上に回転も早く、おまけに遠距離通学(片道3時間弱)だった私は当時、ひたすら学校と家とを寄り道もせず往復し「質より量」的練習に消化不良のまま追われ「馬車馬のように走らされてた」という状態だったのです。
その名残が抜けてなかったのか、気付けば「レッスン前と言うだけで条件反射的に焦らずにいられない」という体質に···。
···ところが絵は本当に正直で、そうやってあれもこれもやったつもりでも「やっつけ作業」なのが先生にはバレバレ···。先生はむしろ「いかに絵に誠心誠意向き合う時間を(たとえ短くても)持ったか」という視点で宿題の出来を観ておられます。そして極端な話「やれたことが結果的に1点だけだった」としても、時間一杯一杯を使って掘り下げたレッスンをして下さいます。
(実際、絵を描くのは時間がかかります。「ジーッと途中まで出来た状態を眺めて内観するだけ」という時間も間に挟みますし、一手が乾いてからでないと次の一手が出せない時もあります。しかも自分で生み出す「創作」「制作」でもあるので、一見「すぐにとりかかってない風な時間」もありますしね。)
そう。完成までの過程段階であっても「葛藤」「愛情」といった『心』が込められた絵筆の跡が追加されてるか否か···を、先生は見破っておられますね···いとも簡単に。
そして先生はこの「誠心誠意向き合う時間」を【光の粒の時間】と表現されます。【光の粒の時間】を重ねた絵は薄っぺらくなく「深み」があるとも。狙うのはそこだと。
何度かそんなご指摘をいただいたお陰で、今は私も音大時代の技術偏重トラウマ?を払拭でき、こんな気付き↓を昨日書き留めるまでに至っております。
結果的にこの【光の粒の時間】は "自分も" 気持ちが良いんですね。なので「レッスンに間に合わせるためにやらなきゃ💦(他人軸)」ではなく···
···という、本来あるべき良い循環が生まれるんだと思います。(ゆくゆく独り立ちした暁には②が省かれていくか、自分で②をする···ということになるのでしょうね。)
確かに心の深奥に届く絵は、生きているかのように「光 (=エネルギー/波動/愛?)」が出ている···。正に分身···。
レッスン受ける受けない···はともかくとしても、どんな人にもその人なりの【光の粒の時間】があると思います。あなたにとっての【光の粒の時間】は、どんなことをしてる時ですか?