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国のための教育と自分のための教育

私が考える「適材適所」実現のイメージは、「適材」が「適所」を求め、それをやりやすくする「環境を整える」というものである。

「人」「所」「環境整備」の3つの要素から成るわけだが、「環境整備」の1つとして、学校教育の中で「自身を把握する」ために必要な力をつけられること、又はそのような機会が与えられることが必要であると考えている。

自身を把握するとは

①自身の長所と短所を知る
②自分は本当は何がしたいのかを知る
③自身の性質を知る

ことであると考える。

①の長所と短所というのは、スキル的な意味のものであり、知識を習得したり、人と関わったりなど様々な経験を経て見えてくるものであるので、ある程度成長してからまとめられるものであろう。

③もまた、周りの環境やそれまでの経験から形作られた自身を分析することでまとめられるものなので、ある程度成長してから意識するものではないかと思われる。

①や③を自分の中でまとめて、人にも伝えられるような形にするためには、自分の考えを言葉として表現する力が必要であるし、それ以上に、「自分で考える」という力を育む必要がある。

②も、①③と同様であるが、さらに大事なことがある。

それは、「自分がしたいことは何か」ということを、小さい頃から注意深く意識し続けることだ。
子どもの頃、特に就学以降は、「やらなければならないことが多すぎる」ために、意識し続けていないと、「自分がしたいことは何か」を見失ってしまうからだ。

やらなければならないことをこなし続けているうちに、「あれ?自分は何がしたいのだろう?」という状態になってしまう。時が経てば経つほど、その状態はひどくなってしまうだろう。

以上のことから、私が考える「適材適所」の実現においては、「自分で考える力」が育まれる教育が必要であり、自分が何をしたいのかを意識し続けられる状態が与えられることが必要であると考える。

今の教育は「教育基本法」の理念をもとにしておこなわれている

この国の教育は、文部科学省が定める施策に基づいて進められており、文部科学省の施策は、「教育基本法」の理念の下、「教育振興基本計画」に基づいて決められている。

教育に関する基本的政策
(文部科学省のホームページより)
教育振興基本計画
(文部科学省のホームページより)

つまり今の学校教育は「教育基本法」の理念をもとにしておこなわれているということになる。

教育基本法
(文部科学省のホームページより)

我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。
 我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。
 ここに、我々は、日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。

教育基本法 前文

教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

教育基本法 第一条

教育基本法の第一条は教育の目的について書かれているがこの第一条の「人格の完成」とは

個人の価値と尊厳との認識に基づき、人間の具えるあらゆる能力を、できる限り、しかも調和的に発展せしめること(「教育基本法制定の要旨」昭和22年文部省訓令)。真、善、美の価値に関する科学的能力、道徳的能力、芸術的能力などの発展完成。人間の諸特性、諸能力をただ自然のままに伸ばすことではなく、普遍的な規準によって、そのあるべき姿にまでもちきたすことでなければならない(「教育基本法の解説」)。

昭和22年教育基本法制定時の規定の概要


昭和22年教育基本法制定時の規定の概要
(文部科学省ホームページ)

私の解釈になるが、ここで言う「人格の完成」とは、個人の能力をできるだけバランスよく伸ばし、いわゆる「立派な人」になること、なのではないかと思う。

そしておそらく、上記引用の中の「あるべき姿」というのは、教育基本法の前文に出てくる
「国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献する」ことができるような力をそなえた状態であったり、第一条の「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた」状態となることなのだろう。

教育基本法に定められた教育の目的から考えると、「自分で考える力」はさておき、「自分が何をしたいのか」を意識し続けるということが学校教育上考慮されることはないのだろうなということがわかる。

国は国。自分の方針は自分で決める

この国の学校教育は、教育基本法第一条のとおり、「人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成」を目的としており、また、同法第五条の義務教育においても、「各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的」としていることが明記されている。

一応個人の尊重について言及しているものの、国家の存続ひいては発展を目的としているため、その役割を担えるよう、一定の「あるべき姿」が求められるのは当然のことだろう。
各人が本当に自由にやって国家が存続できるのかは疑わしいから、一定の規準はどうしても必要なのだろう。(断言できるほどの自信はないが)

教育基本法にしても、その理念を元に作成されている教育振興基本計画にしても、非常によく考えて作られているなあと思う。

学校教育はこの国の存続・発展のためのものである。
そう考えると、自分自身のことというのは、もう自分でやらなければいけないのだと改めて思い知るのだ。

自分でと言っても、小学生や中学生が全て自分のことを自分で考えられるわけではない。
そのための力を身につけている最中なのだから。

だから、どうしても親をはじめとする保護者が、何とかしなければならない。
「教育」だから「学校」に全てを任せるわけにはいかないのだと。

自身を把握することの中で、特に「自分は本当は何がしたいのかを知る」ということについては、保護者が子どものことを見て、時に機会を与え、時に教え導き、時に保護者自身も学ぶなどしてサポートしていくことが必要になるだろう。

その中で、国が用意した制度の中で利用できるものは利用させてもらえば良いと思う。
少し調べてみると、国は様々な制度を用意してくれているのだ。

「ゆとり教育」は間違っていないと思う

「ゆとり教育」という言葉を初めて聞いたとき、「円周率は3」ということとセットで聞いたので、なぜそのような方針をとるようにしたのかと軽く疑問を抱く程度であった。
いわゆる「ゆとり教育」が始まったとき私はすでに大学生であり、全く関わりがなかったからだ。

しかし、社会人となって数年後、あるきっかけで「ゆとり教育」について知る機会が訪れた。

確か2008年か2009年頃、当時通っていた塾(ビジネススクールというか、社会人が通う塾というか、主体的市民を目指すみたいな塾だ)で知り合った人が行っている活動の関係で、とある勉強会に参加したのだが、そこに、「ゆとり教育」を推進したという寺脇研さんが来ていたのだ。

そこで初めて、いわゆる「ゆとり教育」というものがどのような目的で行われたものなのか知った私は、非常に感銘を受けた。「ゆとり教育、素晴らしいじゃないか!円周率3とか、そういう話じゃなかったわ!」

いわゆる「ゆとり教育」の目的と内容はここに記載がある。
新しい学習指導要領の主なポイント(平成14年度から実施)
(文部科学省ホームページ)

簡単に言うと、それまでの「詰め込み教育」から、自ら学び自ら考える力などの「生きる力」をはぐくむ教育への転換が、いわゆる「ゆとり教育」の内容だ。

自ら考える力、これは生きていく中で本当に必要な力で、「こんなの別に学ばなくてもできるでしょ?」と思われるかもしれないが、ずっと受け身で知識を与えられているだけの時を過ごしていると、すぐには発揮できなかったりするのだ。

自分で考えるためには、前提となる知識も必要である。
だから、学校で様々な知識を学ぶことはそのために役には立つ。

ただ、肝心の、「自ら考え」ようとすることがなければ、その知識も活かせないのである。

使っていない道具がさび付いてしまうように、「自ら考える」ということも、やってきていなければ急にできるものではない。
だから、「自ら考える力」などをはぐくもうとする教育である「ゆとり教育」は素晴らしいと思ったのだ。

いわゆる「ゆとり教育」はその後、学力低下の原因とされて批判を受け、学習時間を増やすいわゆる「脱ゆとり教育」に転換されてしまう。

ただ、現在の学習指導要領において「主体的・対話的で深い学びの実現」というものがあるが、それが、「ゆとり教育」における「自ら学び自ら考える力」をはぐくむということを含んでいるといえ、「ゆとり教育」の考え方というか理念は受け継いでいるようである。

主体的・対話的で深い学び
(文部科学省ホームページ)

しかし、私個人としては残念に思うことなのだが、小学校から英語やプログラミングを学ぶということになり、「ゆとり」はなくなってしまっていると感じる。

一事を生ずるは一事を減ずるに如かず

「ゆとり教育」の考え方は間違っていないと思うし、現在もその考え方が引き継がれているようだ。
ただ、ゆとり教育が素晴らしかったのは、考え方だけではなく、「ゆとり」を作り出そうとした点にこそあると考える。

「ゆとり」はとても大事である。忙しく仕事をしていた20代の時は気が付かなかったが、子育てをはじめた30代で痛感した。

すき間なく、やるべき事で時間が埋まっていると、目の前のことを時間内に必死でこなすだけになり、「自分で考える」ことなどできなくなってしまうのだ。

こなすべきことが多くなり過ぎれば、それこそ心の「ゆとり」も失われ、自身の身体や周りの人たちに悪影響を及ぼすことになる。

「ゆとり」があれば、しっかりと「自分で考える」ことができ、ただこなすよりも良い結果を生み出すことができるだろう。
心に「ゆとり」があれば、自身の健康状態にも気を配ることができ、周りの人たちを気にかけることもできるだろう。

自分にとっても周りの人たちにとっても、「ゆとり」を作り出すことは有益なことなのだ。

「一利を興すは一害を除くに如かず。一事を生ずるは一事を減ずるに如かず」という言葉がある。モンゴル帝国に仕えた耶律楚材(やりつそざい)という人の言葉だそうだ。

「一つの利益になることを始めるよりは一つの害を除いたほうがよい。新しいことを一つ増やすよりは余計なことを一つ減らしたほうがよい。」というような意味である。

新しいことを加えるより、やらなくてよいことをよいことをやめるということで「ゆとり」を作り出してもらえれば、学校教育ではあまり重視されない、子どもの「自分自身のための」教育をほどこす時間にあてることもできるし、子どもの「心のゆとり」にもつながると思う。

『万物万人のよりよく生かされた百花繚乱』

ここまで約一年かけて、私自身が考える「適材適所」についてまとめてきた。

当初は、辞書通りの意味である、その人の能力・性質によくあてはまる地位や任務を「与えること」というつもりで「適材適所」を考えていたのだが、「適材適所」について参考にした書籍を読み、また、これまでの自分の人生を振り返って、理想とする環境とは何かを突き詰めて考えた結果、「適材適所」に導く「誰か」に頼るのではなく、人それぞれが、自身にふさわしい所、適所を見つけたらよいのだという考えに至った。

人それぞれが、自分ができることを、自分がしたいことを、自分で考えて、やる。
多くの人がそのように出来たなら、自身を活かして生きることができたなら、今よりもっとよい世の中になるのではないかという夢をいだいてみた。

最後に、私が最も参考にした書籍から引用する。

お互いが素直な心を高めていって社会、共同生活全体に素直な心が広がっていったならば、そういうように、適材適所が社会のあらゆる面において実現し、お互い一人ひとりが、大いなる喜びと生きがいをもって活動し、人生をおくっていくことができるようになるでしょうし、また共同生活全体としても、万物万人のよりよく生かされた百花繚乱、共存共栄の姿がもたらされてくるのではないかと思うのです。

『素直な心になるために』(松下幸之助)「適材適所の実現」

すべての人がよりよく生かされて、各々が各々の幸せを追求する。
私が見たい景色は、そういう景色だ。

私が生きている間には見られないだろうけれど、もし同じ景色を見たいと思う人が他に現れたなら、その人にとって、このまとめが少しでも参考になれば幸いだ。


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