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語り合うことを恐れず、気づきあう。

「自分はこう思う」「だからこうしたほうがいいと思うんだよね」
そういう会話があって、気づきあえること、深められること、より自分事としてとらえて行動につながっていくことがあると思う。

こんなことを2日前のnoteで書きました。

その晩、偶然読んだ記事「西浦教授に研究者に戻ってほしい」。

気になったのは記事の中のこの文章。

大変に恐縮だが、「専門家」という肩書でここまで意識的な大衆動員運動に専心する方が現れたのは、非常に珍しい。使命感に燃えてやっていらっしゃるのだと思うが、研究者としての活動とは切り離されているのが、私としては大変に残念である。

西浦教授は理論免疫学の知見から発信しているので、「それって本当なの?」がどこまでもつきまとうのは記事中にも述べられている通り。
自分自身も理論・推論の要素をもった研究をしているから、事実であること(現象論)と推定されること(機構論)は分別すべきであることは納得するし、現象と機構を裏付ける指標と技術にも目を向けるべきであることも、記事を読んで改めて理解している。

ただ、「意識的な大衆動員運動」という表現は、どうなんだろう。
頭の中でふと思い出したのは、「科学コミュニケーション」の考え方。

社会の発展や経済の成長が科学技術の成果や使い方に大きく依存するように
なっている現代においては、科学コミュニケーションは、正確な科学技術情報を提供し、科学技術の楽しさ、科学技術の正の側面を伝えるだけではなく、科学技術の持つ負の側面も正しく伝え議論を促すことや、広く公共に資する人道主義に基づいた社会課題の解決や利害の調整に関わることも、より一層求められるようになっている。
(2019年2月 文部科学省 科学技術社会連携委員会 資料より:https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu2/092/houkoku/__icsFiles/afieldfile/2019/03/14/1413643_1.pdf)

自分なりの言葉で言い直すなら、
科学の発展は学術のためにのみあるのではなく、社会・市民に広く共有されて、人々の行動や思考を発展させるためにも役割がある、ということ。

科学コミュニケーションの考え方は、自分は大事だと思っていて、研究者であるとともに、社会生活を送るひとりである自分が社会とのつながりを無視しては、自ら研究の意義を見失う恐れがあると思っている。

今回の西浦教授は、42万人死亡の可能性という通常の感覚では受け入れ難い数値を出していることもあり、「科学は科学でしかない」という反応も分からなくもない。

でも、もしこのような研究がうまく世に出てこなかったらどうなるだろう。
たぶん、「どうしたらいいのかわからない」と社会は早くに陥ってしまう。

大事にしたいのは、何かを発信したことを誰かの「気づき」で終わらせないこと。つまりは「気づきあって、語り合う」ことにつなぐこと。

誰も正解を知らないこと、初めてのことだから、「確かな情報」を求めてしまうのは、今起きていることも研究でも同じ。

だけど、その情報の価値を決めるのは研究者だけではないはず。

出てきた情報・成果をどう受け止めるかは人それぞれ。だからこそ、語り合うことまで大事にしたい。
(研究室だとゼミとかでディスカッションするよね)

「大事だよね」となったら、それは価値観の変化のひとつ。
「なんか違うよね」も時には大事。いろいろな考え方を知ることも成長。

物事を知っているからといって、扇動するのは違う。
でも、知っていることを自分だけのものにはしない。扇動されないように、自分で一度考えることも。
語ることを恐れず、他者といっしょに考えあえる人がもっと増えるといいな。

西浦教授は、決して大衆動員運動をしようとしているのではないと、自分は思う。多くの人に知ってもらい、考えてもらい、行動に変えてもらうことを目指しているはず。
行動させる、のではなく、みんなで行動していくために。

自分もそんな研究者になりたい。

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