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統一教会報道に「オウム真理教」の教訓は生かされたのか? マスコミの「カルト叩き」の危険な行方

統一教会報道の問題の1つは、どうしても背後に「反・自民党」の左翼勢力の工作や誘導を感じてしまうことだが、問題はそれだけではない。

「カルト宗教」を扱う危険を、マスコミはどれだけ意識しているのだろうか。そこに、オウム真理教事件の教訓は生かされているのか、という問題がある。

私の考えでは、マスコミはオウム真理教事件から何1つ学んでいない。

視聴者が飽きてきたのか、統一教会の加熱報道も一段落しつつある。このあたりで私の考えをまとめ、警告しておこう。


「マスコミが起こした」オウム事件


1989年から1995年にかけて起こったオウム真理教事件は、カルト教団の「狂気」だけで起きたわけではない。

それは、マスコミ報道が起こした事件でもあった。

私は、その問題意識から「1989年のアウトポスト」という小説を書いている(読むのは無料。映像化権、まだ空いてます!)。この事件については関係者が多くの手記や証言を残しているので、背景や経緯を再構成することができた。


ことの始まりは1989年の夏、神奈川新聞をやめたばかりの江川紹子氏が、サンデー毎日にオウム真理教ネタを持ち込んだことだった。サンデー毎日は10月から「オウム真理教の狂気」キャンペーンを始める。

サンデー毎日は、数カ月前に前任編集長の鳥越俊太郎氏が、「宇野首相スキャンダル」の大スクープを飛ばしたばかりだった。参院選での自民党惨敗と宇野首相の辞任を誘ったこの報道の功績で、鳥越氏はテレビ朝日のキャスターに転身した。

新任の牧太郎編集長は、それに続く「大ネタ」を探しているところだった。江川氏も、フリーになったばかりで、売り込みに熱心だった。そうしたジャーナリストたちの功名心も、この事件の背景として重要な要素である。


サンデー毎日報道への批判


我々は、その後のオウム真理教が起こした事件を知っているから、その報道が正当であったように感じる。実際、地下鉄サリン事件の後、最初にオウムの危険に警鐘を鳴らしたとして、牧氏はジャーナリスト賞を受けた。

しかし、当初から、サンデー毎日の報道には批判があった。

江川氏とサンデー毎日が取り上げたのは、大学生の息子が信仰のために家出したとか、高額の「お布施」を要求された、といった親の側の主張であり、オウムは別に法律を破っていたわけではない。つまり、具体的な「事件」はなかった。

(実際にはオウムは、脱会しようとした信者を1人、この時点で殺していた。だが、そのことはまだ警察もマスコミも知らない)

報道には、まず若手の文化人から批判が出た。子供といっても20歳に近いのだから、好きにさせればいいのではないか、若者にも信教の自由がある、という主張だ。

またマスコミ内でも、毎日新聞という大メディアが、オウムのような小さな新興宗教団体を叩くのは「弾圧」ではないか、という批判があった。オウムは、最盛期でも1万人程度、この時点では在家を入れても数千に満たない小団体だった。

毎日新聞は事実上、創価学会に後援されている。創価学会は信者1000万人と言われる巨大宗教だ。創価学会に限らず、日本には信者数百万人規模の宗教団体は多い。それに比べて、オウムはあまりに小さな存在だった。

オウムは小さいわりに潤沢な資金を持っていたが、それは寄進された不動産がバブルで高騰し、信者がパソコンなどの事業を行っており、豪華な施設の建設などに浪費することもなかったからだ。それでも、他の巨大宗教の資金力に比べれば、全然大したことはなかった。(のちの「武装化」が可能だったのも、ちょうど冷戦終了で東欧圏が政治的に崩壊し、武器が安く買えたからだ)

当然、政治的・社会的には無力な存在だった。

いま話題の統一教会の規模は、当時のオウム真理教よりは大きい。しかし、冷戦時代はともかく、現在は喧伝されるほどの政治力がないと思われる。「政治的・社会的影響力で言えば、創価学会の方を問題にすべきだ」というのは、オウムの時と同じである。


麻原の「信教の自由」論は正しかった


麻原彰晃自身がこの報道を不当な「弾圧」と感じたのは間違いない。

隠しておいた事件が露見しないかという不安もあっただろう。しかし、それがなくても、アリが巨象に踏み潰されるような恐怖を感じたはずだ。サンデー毎日は、スキャンダルで、日本の最高権力者である総理大臣を倒したばかりの媒体だ。

サンデー毎日のキャンペーンが始まった発売日に、麻原は教団幹部と毎日新聞社に抗議に訪れた。その模様は牧太郎氏自身が記録している。

彼らの主張は「信教の自由」である。「あなたがたは、宗教を勉強していますか?」と議論を吹っかけてくる。
ところが僕のほうから「未成年に30万、40万のお布施は高くないか」と逆に質問した途端、「高い? だったら幾らならいいんだ」と麻原はいきり立った。ものすごい剣幕である。異常な反応である。

牧太郎『新聞記者で死にたい』


牧氏は「異常な反応」と言うが、この麻原の反応は「異常」だろうか? この前段には「キリスト教も仏教も出家するのに、なぜ我々だけ問題なんだ」と麻原が問う場面もあった。

当時はバブルの最盛期で、オカルトが人気の時代でもあった。高額な「お布施」を要求する怪しげな団体(例えば、のちに逮捕される福永法源の法の華など)の広告は、サンデー毎日にも載っていた。「なぜ我々だけが」という疑問はもっともだ。

そして「未成年に30万、40万のお布施が高い」というのは牧氏の主観、個人的価値観に過ぎないが、「信教の自由」は憲法の保障である。両者を比べれば、私には麻原の言い分の方が正当であり、「いきり立った」のは無理ないと思える。

麻原は「幾らならいいんだ?」と問うた。この問いも、怒りも、正当だ。高額か高額でないか、カルトかカルトでないかを判断する、マスコミの「基準のあやふやさ」、その恣意性は、今回の統一教会報道でも同様である。

いずれにせよ、麻原の正当な抗議を、「異常」で片付けた牧氏の態度が、その後のなりゆきを決定づけたと思う。

麻原は、サンデー毎日報道に創価学会の意思が働いていると感じた。憲法が頼りにならないことを知り、自分たちの「信教の自由」を守るためには政治力が必要だと考えた。そこで、創価学会を真似て、政党を作って政界進出を目指した。

統一教会と政治家の密接さが批判されるが、まさにサンデー毎日報道のようなことがあり、現在の統一教会報道のようなことがあるから、宗教団体は政治力が必要だと考えるのである。

しかし、オウムは選挙で惨敗した。法で守られず、法を作る側にも回れない者は、「無法者」化する。オウムは政界進出をあきらめ、その代わりに自分たちの「軍隊」を持つべく、サリンなどの兵器開発にいそしむようになる。「小国」が生き残るにはそれしかない、という今の北朝鮮を連想させる姿勢だ。


「カルト叩き」が受ける理由


ともあれ、このサンデー毎日の報道「オウム真理教の狂気」は大反響を呼んだ。「カルト宗教」「邪教」ネタは、今も昔も大衆の好物だ。

いまの統一教会報道と同じで、違法性や具体的な事件との関連は曖昧なまま、ワイドショーが連日、麻原の「空中浮遊」写真やオウムの修行風景を紹介した。統一教会報道で合同結婚式の映像が繰り返し流されるのと同じであった。

「よくこんなことを信じられるな」と常人が思うことを信じる権利が、まさに「信教の自由」だ。それを忘れると、マスコミは「こんなことを信じるやつがいる」と宗教を見世物化しがちになる。異質なものを排除する「魔女狩り」となる。

オウム真理教は、毎日新聞社周辺や、牧氏の自宅近辺でも抗議運動をしたりしたが、それがかえって編集部や牧氏の「記者魂」に火をつけたようだ。サンデー毎日はその後、二カ月近く「反オウム」キャンペーンを展開する。

しかし、せいぜい「詐欺的商法」を告発するだけで、具体的に警察が動くような事実は、1つも露見させることはできなかった。


弁護士一家の惨殺を招く


その間に、江川氏と共にオウムを追及していた坂本堤弁護士の一家、親子3人が、横浜の自宅から姿を消した。

弁護士が、ジャーナリストとともに、メディアの前面に出てきて有名になるのは、今回の統一教会問題でも同じ、カルト宗教をめぐる報道のパターンだ。

弁護士は「信教の自由」のような憲法判断の権威ではない。法の実務家にすぎず、しばしば社会活動家を兼ねている。専門性でも公平性でも疑問符がつくのだが、一般の人は「弁護士の先生がそう言っている」と納得してしまう。だから、テレビが使う。

弁護士と医学博士は世間にあふれている。ガンの先端医療を、近くの町医者に取材に行く記者はいないだろう。「もっと大きな病院で聞こう」「学界の権威に聞こう」となるはずだが、弁護士は医者より馴染みがない分、どんな弁護士も「権威」のように扱われやすい。

オウム事件で、テレビによく出ていたのが、坂本堤弁護士だ。まだ30代前半の若い弁護士だった。彼は、「オウムは公共の福祉に反するから憲法の信教の自由はない」という論法で、サンデー毎日やマスコミのオウム攻撃を正当化していた。

当初は「失踪」とされた坂本弁護士の事件が、オウムによる一家皆殺しであったことが分かるのは、発生から実に6年後、地下鉄サリン事件で逮捕された信者の供述からである。

この事件については、TBSが坂本弁護士のインタビュー映像を放送前にオウム側に見せたことが問題とされる。

それは確かに問題だが、のちの裁判で明らかになったように、決定的なのはそこではなかった。オウムは、サンデー毎日の牧編集長を殺したかったのだが、ガードが固くて捕まらないので、代わりに坂本弁護士一家が殺されたのだ。

オウムの犯行はたいがい行き当たりばったりだった。当初の弁護士拉致計画が、一家皆殺しになったのは、その時のなりゆきにすぎない。しかし、その犯行の凄惨さは、小説の中で再現した私に、数日食欲を失くさせたほどだった。宗教信者の犯行は、犯罪のプロではないので、加減を知らないところが怖い。

ともあれ、子供を含めて3人を殺したことで、捕まれば死刑になると麻原は考えた。一線を超えてしまったことを悟った麻原は、前述のとおり「武装化」するとともに、逮捕だけは避けようと、さまざまな捜査撹乱を企てる。

そのあたりの詳細は「1989年のアウトポスト」を読んでほしいが、牧氏も毎日新聞社も、坂本弁護士一家の「失踪」にオウムが関与したと感じた時点で、オウム追及をやめる。怖気づいたのだろう。

江川紹子氏が評価されるのは、毎日新聞が離れた後も、坂本弁護士事件を追及しつづけたからだ。

だが、それによって警察が動き始め、追い詰められたオウムのさらなる暴挙を招く。捜査撹乱を目的とした、1995年の地下鉄サリン事件である。14人が死亡し、5000人以上が負傷したこの大事件で、ようやく麻原含めた犯人が逮捕される。


異常性を引き出したスキャンダリズム


オウムの犯罪計画がすべて実現していたら、池田大作氏は暗殺され、毎日新聞社ビルは爆破され、天皇陛下にも危害がおよんだかもしれなかった。

現実にも、5000人以上の死傷者を出した大事件が起こった。

そのきっかけは、サンデー毎日の報道だった。だから、サンデー毎日や江川氏は、オウム真理教を追及すべきではなかった、とは、当然ながら言い切れない。

だが、報道が、どれだけの覚悟と準備をもってなされたか。その手法と目的の正当性は問われるべきだろう。それは、公正さや法的妥当性に疑問があるスキャンダリズムであった。

オウムは確かに異常であった。しかし、その異常性を引き出したのは、報道の異常性だった。

もし、江川氏とサンデー毎日が問題にしなければ、信者の何人かが「行方不明」のままになった可能性はあるが、ああした大事件にはならなかっただろう。「法の華」のようにどこかで摘発されたかもしれないし、同時期によく比較された「幸福の科学」のような存在になって存続していたかもしれない。

少なくとも言えるのは、牧太郎氏や江川氏は、のちのような展開になるとは予想だにしなかったということだ。

ものごとは、作用と反作用で起こる。マスコミは自らを「透明人間」のごとく思いがちで、実際、ジャーナリズム論ではそう教える。たとえば戦場では、どちらの味方もせず「透明人間」であることが正しい、とされる。しかし、実際には、そのアクションが必ず「反作用」を招く。その反作用が制御不能となり、社会に大きな被害を与えても、マスコミは知らぬ顔をする。

今では、異常犯罪者の背後にしばしば、幼少期の親の虐待があることが分かっている。それが認識されたのはごく最近で、それまでは親も「透明人間」であり、子に影響があるとしても、いい影響しかないと思われていた。マスコミの位置も、このかつての「親」に近い。「毒親」と同じように「毒メディア」の作用があるのだが、社会にまだ十分認識されていない。


「カルト叩き」は何が目的だったのか


当時のサンデー毎日の記事を見て問題に思うのは、これが何を目的とし、どこを終着点とした「キャンペーン」だか、わからない点である。

「お布施」の返還か? 謝罪か? 教団の解散か? それらが目的として正しいか、そしてそれが可能なのか、きちんと考えられていたと思えない。その点が、いまの統一教会報道と同じだ。視聴率が上がり、部数が増えるからやるだけで、その結末を考えていない。

オウム真理教報道では、それは教団の団結力を強め、過激化・武装化を招いただけだった。「手負いの獣を街に放った」のだ。マスコミが騒げば騒ぐほど、それでも警察に捕まらない教祖を見て、内部では麻原のカリスマ性がさらに高まったのだった。

牧氏の「編集後記」などを読むと、麻原やオウム真理教を軽く見ていたのがわかる。前述のとおり、宗教団体として規模が小さいことに加え、麻原含めて幹部・信者は20歳代から30歳代前半だった。牧氏は当時40歳代半ばで、サンデー毎日は中高年が読む媒体だった。彼らにとってオウムは、世間知らずの若者たちの遊びのようにしか見えなかったのかもしれない。

当時、サンデー毎日は、週刊文春と共に、同年に発覚した綾瀬コンクリート殺人事件の未成年犯罪に、厳しい態度をとっていた。その連続線上で、「近頃の若者は〜」と説教したいだけだったようにも思える。また、新聞ではなく週刊誌であったことも、憲法論上の理論武装がいい加減だった理由だろう。

宗教を甘く見てはいけない。信教の自由を守れ、「内心の問題」に踏み込むな、というのは、単なるお題目やエチケットではない。その侵害は、極めて危険なことなのだ。極めて危険な反動を招きうる。妥協や「落としどころ」のない結末だ。それをオウム真理教事件は多大な社会的犠牲を代償に教えている。いま統一教会報道に血道をあげるマスコミを見て思うのは、そのことである。

統一教会が、オウム真理教と同じようなことを起こすと言いたいわけではない。蜂の巣をつついたら、何が起こるかわからないと言いたいのだ。マスコミや世論の関心は一時的だが、信仰は一生モノで命がかけられている。

統一教会には韓国の団体という要素もある。日本のマスコミも、日本政府も、結果をコントロールできない。

結局、カルトは死なない



そして最後の問題として、「カルト叩き」でカルト宗教はなくならないことがある。

前述のとおり、サンデー毎日報道のあと、オウム真理教はむしろ勢力を拡大していった。メディアに露出した麻原やオウムの幹部が若者を惹きつけた。

「1989年のアウトポスト」に書いたが、その直後のバブル崩壊によって、さらに信者を増やす。要するに、世の中に不幸のタネがある限り、それを養分にこうした宗教は増殖していく。

オウムは解散しても、後継団体は残っている。

統一教会についても、40年前にあれほど叩かれながら、やはりまだ残っていた。

詐欺で服役していた「法の華」の福永法源氏も、出所後、活動を再開している。


アメリカのカルト宗教のNetflixドキュメンタリー「キープ・スイート」は、日本でも関心を呼んだらしく、私のnoteでのレビューがよく読まれている(統一教会報道の影響だろう)。

この一夫多妻制の異端教団だって、アメリカでまだ生き残っている。教祖が逮捕されても、それを「受難」「神が与えた試練」と捉えて、耐え忍ぶ熱心な信者は絶えないのだ。

オウム真理教の異常性が際立っていたのは確かである。しかし、過激な宗教団体は歴史上いくらでもあったし、現在もたくさんある。

つまり、カルト宗教団体はなくならない。ウイルスの変異体と同じで、形を変えながら人類とともにあると考えた方がいい。


まとめ


長くなってしまったが、まとめるなら、次の5つです。


1 大衆に「受ける」からといって、重大な罪状もなくカルト宗教を追い詰めてはいけない。目の前の反響によって、マスコミ報道は加熱しがちだが、その結果、社会に予測不能の重大な被害が生じる場合がある。

2 その被害は、マスコミだけではなく、その関係者や、むしろまったく関係のない第三者に及ぶ。

3 その原因にマスコミ報道があったとしても、マスコミがその責任を取ることはない(社会的被害が生じれば、かえって事後的に報道の正当性が高まって、因果関係が等閑視される)。

4 その報道の結果、カルト宗教がなくなることはほとんどない。

5 マスコミの報道で救済される人もいるだろう。しかし、全体として見た場合、カルト宗教報道の最大の受益者は、視聴者や購読数を増やしたマスコミ自身であり、最大の被害者が社会や共同体である恐れがある。


カルト的な宗教に関しては、法で罰せられる部分は適正に罰し、それ以外は触らず、放置しておいた方がいい。問題を無理に「社会化」し、世論を動員したバッシングをおこなうと、被害が拡大する可能性が大きい。

それが、オウム真理教事件の教訓である。


<参考>


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