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左翼は右翼より悪い

きのう、「蓮舫の敗北と『丸山真男主義の終わり』」というのを書いたのだけど、本当に書きたいことが、書けないで終わってしまった。

本当に書きたかったのは、


むかしは「右翼は左翼より悪い」と教わった。「右翼嫌い」が正しかった。(むかしの常識)

でも今では「左翼は右翼より悪い」と教えるべき。ちょっと「左翼嫌い」くらいが正しい。


というようなことなんですが。


前世紀の常識


「常識」が変わったんです。

でも、これは大問題だなあ、自分の手に余る、と途中で気づいて、書けなかった。

書けるところまで、今回、書いてみようと思います。


むかしと今、と対比してますが、その「むかし」は、わりあい新しい。

むかし=20世紀 今=21世紀、と言ってもいい。

冷戦が終わった1991年(実質的には1989年)が歴史上の区切りではあるけど、それが人びとの「思想」次元に定着するまで、10年はかかっている。


まあ、わかりやすいのは、北朝鮮の拉致事件ですよ。

拉致が事実であった、と分かったのは、2002年(小泉訪朝)。

60代の、わたしの人生の中では、ごく最近のことです。

あれは、本当に驚きだったんです。


それまでは、

「北朝鮮がそんなことをするはずがない。拉致の話は、反共主義者のデマだ」

が、マスコミの常識だったわけですから(産経新聞を除く)。

それどころか、「北朝鮮」なんて雑に呼んではダメで、「朝鮮民主主義人民共和国」と正式名で呼んで、他の国にもまして敬意を表さなければならなかった。

北朝鮮を擁護する記者に反論する安倍晋三


それまでは、北朝鮮や左翼に不利なことを言うと、「反共主義者」だとレッテルを貼られた。

今でも、日本共産党は言いますね。自分の敵に「反共主義者」「反共宣伝」だと。

かつては「反共主義者」というのは、知的にも倫理的にも劣っているという非難でした。つまり、左翼を批判するのは悪でした。


わたしとほぼ同世代で、社民党にいた辻元清美も、社民党にいて、いま世田谷区長になった保坂展人も、そういう「常識」の中で、北朝鮮の拉致を否定する側で、40歳くらいまで生きていた。

今回、都知事選で蓮舫を推した、しばき隊周辺の人たち、野間ナントカとか、菅野完とかも、同じ世代だから、やはり同じ「常識」で生きてきたはず。


いや、他人事ではなく、それは、わたし自身の「常識」でもあったんです。

でも、わたしは、1990年代から2000年代にかけて「常識」を変えた。

しかし、彼らは変えなかったんじゃないかな。


「右翼」という絶対悪


1990年代以降に物心ついた人たちには、もうこの「常識」がない。

そのちがいが、今回の蓮舫への年齢別支持でも、はっきりクッキリ出ていた。

それを、「若者の右傾化」というのは間違いなんです。

「常識」の変化であり、今は、若者の常識のほうが正しい。


20世紀に「右翼は左翼より悪い」「右翼嫌い」が正しかったのは、やはり第二次世界大戦の記憶があったからだと思う。

右翼軍人たちの横暴と、それに対する左翼のレジスタンス、という図式が、戦後はドラマやドキュメンタリーで無数に繰り返され、人びとの骨の随まで染み込みました。

戦争を知らないわたしの世代なんかも、そういう教育を浴びてきたわけです。


中でも、ヒトラーのナチスドイツのユダヤ人虐殺が大きかった。

戦後はこれが「絶対悪」とされ、ある意味で世界の倫理の基準になった。

そこで悪の側に分類されるのは「右翼」思想です。

今でも左翼は、自分たちの敵に「ファシスト」「ナチ」「ヒトラー」とレッテルを貼る。


わたしが出版界に入った1980年代ころ、鮮明に記憶に残っていることがあります。

わたしが尊敬するある先輩編集者が、しみじみとした口調で、こう言ったんですね。


「ぼくの人生の目的は、なぜナチスがユダヤ人を虐殺したのか、それを知ることです。なぜ人間が人間にあんなひどいことができたのか。それを解明したい」


こういう問題意識を持ちつづけた知識人は、非常に多かったのではないかと思いますね。

当時はハンナ・アーレントなんかが流行って、「凡庸な悪」について議論するのが読書界の流行だった。

「夜と霧」とか、「自由からの逃走」とか、ユダヤ人の立場から書かれたナチス関連の本は、読書感想文コンクールなんかでは毎度「課題図書」にあがって、ほとんど「聖典」と化していた。20世紀の優等生たちや本好きは、みんな読んでます。

ごく最近でも、岩波とかは、池田浩士のナチス(批判)本など、たくさん出していますね。


だから、わたしも、当時は、その先輩の言を、

(はあ、そうですか。それはご立派で)

という思いで聞いたけれども。


でも、もう10年あとに、その先輩の言を聞いたら、

「そうですか。でも、文化大革命とか、ポル・ポト革命とかも、問題じゃないっスか」

と言ったでしょう。


ナチス映画の影響力



冷戦時代は、ソ連や中国には、なんだかんだでファンがいたし、それらの大国に批判が多くなっても、共産主義、社会主義への信仰は消えなかった。

1990年代になっても、辻元清美は、土井たか子委員長の社会民主党にいて、社会主義が必要だ、と言っていましたよ。いつの間にか社民党から民主党に移って、言わなくなったけど。

かつては、キューバとか、ベネズエラとか、アルバニアとか、北朝鮮とか、むかしのビルマとかカンボジアとか、そういったマイナーな社会主義国にも、それぞれひいきがいたんです。

どこもろくなことになっていないから、今では信じられないだろうけど、ほんと最近の話なんです。


でも、大衆の想像力に、もっとも大きな影響を与えたのは、結局、「ナチスのユダヤ人虐殺」ではないでしょうか。

ハリウッドでも、このテーマで、繰り返し、大物監督や有名俳優を起用して映画が製作される。


最近も「関心領域」という映画がありましたね。アウシュビッツ収容所の(隣に住む人の)話。

見てないけど、どんな話かは、だいたい分かります。

これはイギリスの映画だけど、カンヌでグランプリを取り、今年の米アカデミー賞外国映画賞その他を受賞した。


飽くことなく「ナチス」映画が作られるいっぽうで、文化大革命の映画や、ポルポト革命の映画は、どれほど作られているか。


ポルポト革命の実態を(不完全ながら)描いた「キリング・フィールド」が、1985年度のアカデミー賞(助演男優賞など)をとったのは画期的だったけど、少し前にnoteに書いたように、もうそのことも忘れられている。あとが続かないからね。


映画「キリング・フィールド」でアカデミー賞をとったハイン・S・ニョールは、みずから大虐殺の生き証人だった


文革についてはNetflixの「三体」とか、ポルポトについては同じくNetflixのアンジェリーナ・ジョリー監督「最初に父が殺された」とか、カンボジア映画の「シアター・プノンペン」とか、重要な成果は近年にあったとしても、数において圧倒的に少ないですよ。


Netflix「三体」(2024)の文革シーン
Netflix「最初に父が殺された」(2017)



単純に犠牲者の数だけでいっても、残虐さでいっても、ナチスのユダヤ人虐殺と変わらないのに。

わたし自身は、ガス室も怖いけど、クメールルージュの、あの野蛮な殺し方のほうが怖い。

しかし、キリングフィールドは、アウシュビッツほど知られていない。

時間的にも、地理的にも、われわれにより「近い」話なのに。


「左翼」の悪を描くのを、なんとなく遠慮してない?


これはやっぱり、ユダヤ人はカネがあり、世界に有力者が多いからですか。イスラエルがカネを出すからですか。

カンボジア人は貧しくて、国際世論に力がないからですか。


もしそうならば、なおさら、われわれアジア人は、同じアジア人の悲劇を語り継いでいかなければならない、と思う。ポルポト革命の犠牲者のために。白人にまかせておけない。

日本は、官民ともに、カンボジアには暖かい援助の手を差し伸べてきた。その事実は尊いけれども、ポルポト革命、クメールルージュの事績を伝える点では、いかにも無力だと感じずにいられない。


ポルポト革命の悲劇について、同時代に日本が「無関心領域」すぎたのは事実です。

「ぼくの人生の目的は、なぜポルポトが同胞を虐殺したのか、それを知ることです。なぜ人間が人間にあんなひどいことができたのか。それを解明したい。日本人が、それに気づくのが遅れたことも含めて」

という日本の知識人が、もっといないとおかしいと思う。

でも、あまり聞いたことないですね。


独立系で映画を作る人は、たいがい左翼だし。

それをマスコミももてはやす。


それというのも、まだ「左翼」の悪口を言いにくい空気があるからではなかろうか。

日本共産党は、「共産党」と名乗っている以上は、ポルポトの犠牲について、他人事ではないと感じるべきだけど、積極的な発言は聞いたことがないですね。


中国への忖度?



なんか、さっそく話がそれて、収拾がつかなくなってきた・・

でも、日本の「左翼の悪を描くのを遠慮する文化」については、もうひとつ気になっていることを言いたい。


これも、以前、少し書いたことがある、ジョン・アダムズの名作オペラ「中国のニクソン」についてだけど。


そのオペラの代表曲が「私は毛沢東の妻」ですね。

単独でも有名な現代歌曲で、YouTubeで探せば、クラシックの歌手が歌っている動画をたくさん見ることができる。

これは、毛沢東の妻・江青が、文化大革命の意義を歌い上げる内容で、逆に文革の異常さを表現している、そんな曲です。

2011年のNYメト公演で「私は毛沢東の妻」を歌うキャサリーン・キム



でも、この曲を歌っているのは、ほとんど韓国人か、中国系のアメリカ人です。

なぜか日本人が歌っていない。これが不思議なんですね。

現代オペラの中で、東洋人にとって貴重なレパートリーのはずです。蝶々夫人に代わるような。英語の歌曲で歌いやすいし。


「中国のニクソン」は、中国で上演禁止だから、中国人が歌えないのは仕方ない。

でも、日本人が歌わないのはおかしいでしょう。

「中国のニクソン」は、中国で上演禁止だとしても、そんなに反中国的イデオロギーで作られたオペラではない。

それに、文化大革命は、中国でも公式に誤りだったと認められている。


でも、日本人が歌わない、歌えないとすれば、クラシック音楽界に、強力な「中国への忖度」があるのでしょうか。

日本の芸術界に、中国のご機嫌を損ねてはならない、みたいな縛りがある?

なんで?

これ、まだよく分からないんですけどね。日本人でも歌ってます、という動画がひとつでもあればいいんだけど、いまのところ見たことがない。もう少し調べたいですが。



ほら、話がまとまらない。

結局、わたしは何を言いたかったのか。

歳をとって、アタマの集中力がますますなくなったな。


言いたかったのは、日本の世論や文化は、やはり左にズレているということ。

それは前世紀の遺物だから、もう少し右に戻さなきゃいけない。

みたいなことなんですけどね。



<参考>





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