![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/147198836/rectangle_large_type_2_924bdbcede46f8573c8778f53cb0c98d.jpeg?width=1200)
左翼は右翼より悪い
きのう、「蓮舫の敗北と『丸山真男主義の終わり』」というのを書いたのだけど、本当に書きたいことが、書けないで終わってしまった。
本当に書きたかったのは、
むかしは「右翼は左翼より悪い」と教わった。「右翼嫌い」が正しかった。(むかしの常識)
でも今では「左翼は右翼より悪い」と教えるべき。ちょっと「左翼嫌い」くらいが正しい。
というようなことなんですが。
前世紀の常識
「常識」が変わったんです。
でも、これは大問題だなあ、自分の手に余る、と途中で気づいて、書けなかった。
書けるところまで、今回、書いてみようと思います。
むかしと今、と対比してますが、その「むかし」は、わりあい新しい。
むかし=20世紀 今=21世紀、と言ってもいい。
冷戦が終わった1991年(実質的には1989年)が歴史上の区切りではあるけど、それが人びとの「思想」次元に定着するまで、10年はかかっている。
まあ、わかりやすいのは、北朝鮮の拉致事件ですよ。
拉致が事実であった、と分かったのは、2002年(小泉訪朝)。
60代の、わたしの人生の中では、ごく最近のことです。
あれは、本当に驚きだったんです。
それまでは、
「北朝鮮がそんなことをするはずがない。拉致の話は、反共主義者のデマだ」
が、マスコミの常識だったわけですから(産経新聞を除く)。
それどころか、「北朝鮮」なんて雑に呼んではダメで、「朝鮮民主主義人民共和国」と正式名で呼んで、他の国にもまして敬意を表さなければならなかった。
北朝鮮を擁護する記者に反論する安倍晋三
それまでは、北朝鮮や左翼に不利なことを言うと、「反共主義者」だとレッテルを貼られた。
今でも、日本共産党は言いますね。自分の敵に「反共主義者」「反共宣伝」だと。
かつては「反共主義者」というのは、知的にも倫理的にも劣っているという非難でした。つまり、左翼を批判するのは悪でした。
わたしとほぼ同世代で、社民党にいた辻元清美も、社民党にいて、いま世田谷区長になった保坂展人も、そういう「常識」の中で、北朝鮮の拉致を否定する側で、40歳くらいまで生きていた。
今回、都知事選で蓮舫を推した、しばき隊周辺の人たち、野間ナントカとか、菅野完とかも、同じ世代だから、やはり同じ「常識」で生きてきたはず。
いや、他人事ではなく、それは、わたし自身の「常識」でもあったんです。
でも、わたしは、1990年代から2000年代にかけて「常識」を変えた。
しかし、彼らは変えなかったんじゃないかな。
「右翼」という絶対悪
1990年代以降に物心ついた人たちには、もうこの「常識」がない。
そのちがいが、今回の蓮舫への年齢別支持でも、はっきりクッキリ出ていた。
それを、「若者の右傾化」というのは間違いなんです。
「常識」の変化であり、今は、若者の常識のほうが正しい。
20世紀に「右翼は左翼より悪い」「右翼嫌い」が正しかったのは、やはり第二次世界大戦の記憶があったからだと思う。
右翼軍人たちの横暴と、それに対する左翼のレジスタンス、という図式が、戦後はドラマやドキュメンタリーで無数に繰り返され、人びとの骨の随まで染み込みました。
戦争を知らないわたしの世代なんかも、そういう教育を浴びてきたわけです。
中でも、ヒトラーのナチスドイツのユダヤ人虐殺が大きかった。
戦後はこれが「絶対悪」とされ、ある意味で世界の倫理の基準になった。
そこで悪の側に分類されるのは「右翼」思想です。
今でも左翼は、自分たちの敵に「ファシスト」「ナチ」「ヒトラー」とレッテルを貼る。
わたしが出版界に入った1980年代ころ、鮮明に記憶に残っていることがあります。
わたしが尊敬するある先輩編集者が、しみじみとした口調で、こう言ったんですね。
「ぼくの人生の目的は、なぜナチスがユダヤ人を虐殺したのか、それを知ることです。なぜ人間が人間にあんなひどいことができたのか。それを解明したい」
こういう問題意識を持ちつづけた知識人は、非常に多かったのではないかと思いますね。
当時はハンナ・アーレントなんかが流行って、「凡庸な悪」について議論するのが読書界の流行だった。
「夜と霧」とか、「自由からの逃走」とか、ユダヤ人の立場から書かれたナチス関連の本は、読書感想文コンクールなんかでは毎度「課題図書」にあがって、ほとんど「聖典」と化していた。20世紀の優等生たちや本好きは、みんな読んでます。
ごく最近でも、岩波とかは、池田浩士のナチス(批判)本など、たくさん出していますね。
だから、わたしも、当時は、その先輩の言を、
(はあ、そうですか。それはご立派で)
という思いで聞いたけれども。
でも、もう10年あとに、その先輩の言を聞いたら、
「そうですか。でも、文化大革命とか、ポル・ポト革命とかも、問題じゃないっスか」
と言ったでしょう。
ナチス映画の影響力
冷戦時代は、ソ連や中国には、なんだかんだでファンがいたし、それらの大国に批判が多くなっても、共産主義、社会主義への信仰は消えなかった。
1990年代になっても、辻元清美は、土井たか子委員長の社会民主党にいて、社会主義が必要だ、と言っていましたよ。いつの間にか社民党から民主党に移って、言わなくなったけど。
かつては、キューバとか、ベネズエラとか、アルバニアとか、北朝鮮とか、むかしのビルマとかカンボジアとか、そういったマイナーな社会主義国にも、それぞれひいきがいたんです。
どこもろくなことになっていないから、今では信じられないだろうけど、ほんと最近の話なんです。
でも、大衆の想像力に、もっとも大きな影響を与えたのは、結局、「ナチスのユダヤ人虐殺」ではないでしょうか。
ハリウッドでも、このテーマで、繰り返し、大物監督や有名俳優を起用して映画が製作される。
最近も「関心領域」という映画がありましたね。アウシュビッツ収容所の(隣に住む人の)話。
見てないけど、どんな話かは、だいたい分かります。
これはイギリスの映画だけど、カンヌでグランプリを取り、今年の米アカデミー賞外国映画賞その他を受賞した。
飽くことなく「ナチス」映画が作られるいっぽうで、文化大革命の映画や、ポルポト革命の映画は、どれほど作られているか。
ポルポト革命の実態を(不完全ながら)描いた「キリング・フィールド」が、1985年度のアカデミー賞(助演男優賞など)をとったのは画期的だったけど、少し前にnoteに書いたように、もうそのことも忘れられている。あとが続かないからね。
![](https://assets.st-note.com/img/1720922600862-kmeQvi62ty.jpg)
文革についてはNetflixの「三体」とか、ポルポトについては同じくNetflixのアンジェリーナ・ジョリー監督「最初に父が殺された」とか、カンボジア映画の「シアター・プノンペン」とか、重要な成果は近年にあったとしても、数において圧倒的に少ないですよ。
![](https://assets.st-note.com/img/1720921477141-MB76UtHuXC.jpg)
![](https://assets.st-note.com/img/1720921575130-obvolt25Jx.jpg)
単純に犠牲者の数だけでいっても、残虐さでいっても、ナチスのユダヤ人虐殺と変わらないのに。
わたし自身は、ガス室も怖いけど、クメールルージュの、あの野蛮な殺し方のほうが怖い。
しかし、キリングフィールドは、アウシュビッツほど知られていない。
時間的にも、地理的にも、われわれにより「近い」話なのに。
「左翼」の悪を描くのを、なんとなく遠慮してない?
これはやっぱり、ユダヤ人はカネがあり、世界に有力者が多いからですか。イスラエルがカネを出すからですか。
カンボジア人は貧しくて、国際世論に力がないからですか。
もしそうならば、なおさら、われわれアジア人は、同じアジア人の悲劇を語り継いでいかなければならない、と思う。ポルポト革命の犠牲者のために。白人にまかせておけない。
日本は、官民ともに、カンボジアには暖かい援助の手を差し伸べてきた。その事実は尊いけれども、ポルポト革命、クメールルージュの事績を伝える点では、いかにも無力だと感じずにいられない。
ポルポト革命の悲劇について、同時代に日本が「無関心領域」すぎたのは事実です。
「ぼくの人生の目的は、なぜポルポトが同胞を虐殺したのか、それを知ることです。なぜ人間が人間にあんなひどいことができたのか。それを解明したい。日本人が、それに気づくのが遅れたことも含めて」
という日本の知識人が、もっといないとおかしいと思う。
でも、あまり聞いたことないですね。
独立系で映画を作る人は、たいがい左翼だし。
それをマスコミももてはやす。
それというのも、まだ「左翼」の悪口を言いにくい空気があるからではなかろうか。
日本共産党は、「共産党」と名乗っている以上は、ポルポトの犠牲について、他人事ではないと感じるべきだけど、積極的な発言は聞いたことがないですね。
中国への忖度?
なんか、さっそく話がそれて、収拾がつかなくなってきた・・
でも、日本の「左翼の悪を描くのを遠慮する文化」については、もうひとつ気になっていることを言いたい。
これも、以前、少し書いたことがある、ジョン・アダムズの名作オペラ「中国のニクソン」についてだけど。
そのオペラの代表曲が「私は毛沢東の妻」ですね。
単独でも有名な現代歌曲で、YouTubeで探せば、クラシックの歌手が歌っている動画をたくさん見ることができる。
これは、毛沢東の妻・江青が、文化大革命の意義を歌い上げる内容で、逆に文革の異常さを表現している、そんな曲です。
![](https://assets.st-note.com/img/1720922339043-R7pi4FC0Ni.jpg)
でも、この曲を歌っているのは、ほとんど韓国人か、中国系のアメリカ人です。
なぜか日本人が歌っていない。これが不思議なんですね。
現代オペラの中で、東洋人にとって貴重なレパートリーのはずです。蝶々夫人に代わるような。英語の歌曲で歌いやすいし。
「中国のニクソン」は、中国で上演禁止だから、中国人が歌えないのは仕方ない。
でも、日本人が歌わないのはおかしいでしょう。
「中国のニクソン」は、中国で上演禁止だとしても、そんなに反中国的イデオロギーで作られたオペラではない。
それに、文化大革命は、中国でも公式に誤りだったと認められている。
でも、日本人が歌わない、歌えないとすれば、クラシック音楽界に、強力な「中国への忖度」があるのでしょうか。
日本の芸術界に、中国のご機嫌を損ねてはならない、みたいな縛りがある?
なんで?
これ、まだよく分からないんですけどね。日本人でも歌ってます、という動画がひとつでもあればいいんだけど、いまのところ見たことがない。もう少し調べたいですが。
ほら、話がまとまらない。
結局、わたしは何を言いたかったのか。
歳をとって、アタマの集中力がますますなくなったな。
言いたかったのは、日本の世論や文化は、やはり左にズレているということ。
それは前世紀の遺物だから、もう少し右に戻さなきゃいけない。
みたいなことなんですけどね。
<参考>