石川喬司と新聞社文芸の時代
これも虫の知らせか。
先週、石川喬司のことを考えていて、「そういえば、石川はもう死んだんだっけか」と、ぼんやり思っていた。
その石川の訃報が、昨日出た。亡くなったのは1カ月以上前である。
石川喬司氏(いしかわ・たかし=作家、評論家)7月9日午後4時20分、肺炎のため東京都内の病院で死去、92歳。
毎日新聞記者を経て創作活動に入り、78年「SFの時代」で日本推理作家協会賞を受賞。(時事通信)
石川喬司のこと、いまの若い人、マスコミや文壇の人は、ほとんど知らないだろう。
といって、私もよく知っているわけではない。
私がマスコミに入ったときは、まだ現役の作家だったが、とくに縁はなかった。パーティー等ですれ違ったことがあったかどうか、といったところだ。
いま、文芸の世界は、芥川・直木賞の文藝春秋を中心とした出版社が担っている。
しかし、かつて新聞社が文芸を背負っていた時代があった。
その「新聞社文芸」の歴史を調べていた時があって、そのことを先週思い出していたのだ。
「新聞社文芸の時代」の最後のあたりで、重要な役割を果たしたのが石川喬司である。
「小説サンデー毎日」の名編集者
「新聞社文芸」について調べたメモや資料は散逸してしまったので、ここで詳しく書けないし、あまり覚えてもいない。
たとえばシャーロック・ホームズの第一作「緋色の研究」が載ったのが(翻案ではあったが)「毎日新聞」であったように(明治32年)、新聞は、「小説」という日本人にとって新しい文芸を紹介・普及する主な媒体だった。
新聞社文芸の歴史を追っていくと、必ず出てくるのが千葉亀雄(1878ー1935)という人物だ。
東京日日新聞(毎日新聞の前身)学芸部長だった彼は、「サンデー毎日新人賞」を創設して、文芸振興に務めた。死後、サンデー毎日で「千葉亀雄賞」が創設され、井上靖や黒岩重吾をデビューさせている。
日本文芸史の中では、「新感覚派」という言葉を作ったことでも知られる。
千葉が作った「サンデー毎日新人賞」の流れは戦後も引き継がれ、「小説サンデー毎日」の創刊につながる。戦後の中間小説ブームのときだ。
その「小説サンデー毎日」の副編集長を務めていたのが石川喬司だ。
私が石川に興味を持ったのは、「新聞社文芸」の最後の時代の名編集者としての彼だった。
つまり、千葉亀雄を濫觴とした「サンデー毎日文芸」の、掉尾を飾ったのが石川だ。
それは1950年代から1960年代初めのことだった。石川が30歳前後のころである。
そのころ、たとえばマクベインの87分署シリーズが「サンデー毎日」で連載されていた。作品名などもう忘れたが、翻訳も含めて、石川の仕事だったのではないかと思う。
SF作家として
石川は1963年、まだ毎日新聞社員だったが、星新一、小松左京たちとSF作家クラブを設立した。
そして、1971年に毎日新聞をやめ、作家専業となる。
石川にとっての「人生の本番」はそれからだったが、その後のことは、むしろ私は知らない。
石川は、SF小説の実作者、また普及者として活躍するが、私がマスコミに入った1980年代には、もうSFは下火だった。
SFと入れ替わるように文壇を席巻したのは「冒険小説」だった、ということは別の記事に書いた。
石川は1980年代後半には、SF作家というより、競馬評論家として知られていたと思う。
パーティーですれ違ったとすれば、そのころだが、話をした記憶はない。
考えてみると、そのころまで、新聞社出身の作家が多かった。
司馬遼太郎、松本清張、井上靖、山崎豊子など。松本は朝日新聞西部本社の広告部。井上と山崎は、毎日新聞学芸部の先輩・後輩、上司と部下だった。
石川も新聞社出身作家の一人だったが、その後、新聞出身の作家は、あまり出なくなった。その意味でも、「新聞社文芸」の最後の時期の人だった。
「新聞社文芸」を調べていた時、「小説サンデー毎日」時代のことなどを石川に聞きたいと思っていたが、果たせなかった。
ご冥福をお祈りしたい。