「がきデカ」50周年と、キングクリムゾン「RED」50周年が、同時に来て引き裂かれる自己
「がきデカ」連載50周年と、「レッド」発売50周年が同時に来て、困惑している自分がいる。
マンガ『がきデカ』の連載50周年を記念して、山上たつひこ氏の作品(電子書籍)の無料キャンペーンが開始。『がきデカ』(Kindle版)を含む一部作品が、Amazonにて無料で配信されている。
(ファミ通 2024/10 /22)
キング・クリムゾン(King Crimson)が1974年のリリースしたスタジオ・アルバム『Red』。発売50周年を記念した50thアニヴァーサリー・エディションの発売にあわせ、同エディションにも収録されている、アルバム全曲分のエレメンタル・ミックスがストリーミング配信開始。
(AMASS 2024/10/25)
どちらも思い出深い。
それは、私が中学生のころだった。
あれから50年かあ、と感慨深いのだが。
「がきデカ」を読んでいる私と、「レッド」を聴いている私。その二つの記憶、二つの自己像が、うまく重ならない。
「レッド」にはこんな思い出がある。私の学校では、音楽の授業の最初の5分間、生徒が自分の好きなレコードを持ち込んでかけていいコーナーがあった。
私は、買ったばかりの「レッド」の1曲目(表題作)を教室でかけた。大音量で鳴るディストーションサウンドに、女の音楽の先生が目を丸くしていた。
「どうだ、これが最先端の音楽だ!」と、私は意気揚々、「してやったり」の表情を浮かべていたはずだ。
↓(音量注意)
いっぽう、「がきデカ」には、放課後、家に帰りたくなくて、友達の家でまったりして、寝っ転がって黙々と少年チャンピオンを読んでいた、なんというか、日常から退却・逃避していた自分の姿しか浮かばない。
家族にも、学校にも、うんざりしていた(反抗期だった)。
その、不快な家と学校とのはざまで、その隙間を埋めるような形で、心を慰めてくれる「がきデカ」があった。
思うに、「レッド」は、背伸びした、多少攻撃的で、気取った、自分が他者からこう見られたいという、社会的な自分、「外的な自己」と結びついていた。
「がきデカ」は、等身大の、他者の目から隔離された、飾らない、解放された、子供そのままの「内的な自己」と結びついていた。
その二つの「自己」が、ともに必要だった。その二つのバランスをとりながら、私はまさに大人になろうとしていたのだと思う。
しかし、あれから50年たって、老人になっても、その二つの自己が、まだ、うまく統合されていないと感じる。
だから、「がきデカ」「レッド」の50周年に戸惑う。どちらも好きなのだが、「同時に好き」になれない、というか・・
「引き裂かれた自己」のまま、私は死んでいくのだなあ、と思う。
来年(2025年)は、どおくまん「嗚呼!!花の応援団」と、ピンク・フロイド「炎(Wish You Were Here)」の50周年だ。
私はまた引き裂かれると思う。
<参考>