「科学モドキ」の社会学と心理学と経済学は永遠にバカにされる
疑われ続ける学問性
宮台真司が原発「処理水」問題でしくじったことから、社会学や社会学者がバカにされている。
ちなみに、私もバカにしている。
三品純は、noteで、以下のようにバカにしていた。
ただのいっちょ噛み稼業! 活動肌社会学者を作り出す三段活用フレーズ
三品は、太郎丸博・京大教授の、以下のような言を引用している。
日本の社会学の特徴は、アカデミズムの軽視だと思います。すなわち、学会報告や学会誌を軽視しているということです。学会発表もせず、学会誌に論文を投稿もせず、それでも社会学者づらして本を出版したり、さまざまなメディアで発言することができるのが、日本社会学の実情です。
その言を裏書きするように、社会学の教授がちゃんと論文を書いてないことが、X(ツイッター)で暴露されていた。
社会学は19世紀に生まれた新しい学問で、
「ほんとに科学なのか?」
とずっと疑われてきた。
戦後の代表的評論家、清水幾太郎は東大で社会学を学んだが、その処女作は「社会学批判」だった。
社会学は、イデオロギーを研究対象にするが、社会学それ自体がイデオロギーではないか。
というのが、その趣旨だった。もう90年くらい前の話だが、いまでも鋭い指摘だと思う。
社会調査の手法そのものは定量的でも、なにを調査するか、その調査をどのように位置づけるか、というところに、イデオロギー性が出やすい。
そのことは、ずっと引っかかっている。
心理学はコウモリか
同じようなことは、心理学についても言える。
心理学も19世紀に生まれ、やはり
「本当に科学なのか」
と疑われてきた。
私が若いころ、ユリイカか何かに心理学者の岸田秀が書いた「心理学無用論」が話題になった。
心理学は、学問のような顔をしているが、コウモリが鳥のように扱われているのと同然で、インチキである。
言ってることは、科学でもなんでもなく、常識に毛がはえた程度のことだ。
みたいな辛辣な内容だった。
それに対して、心理学者がまともに反論した話も聞かない。痛いところを突いていたのだろう。
私の見るところ、心理学は結局、医学や生理学に吸収されるしかなく、心理学独自では生き残れないはずである。
映画「ハンニバル」の冒頭で、
「ハンニバル・レクター博士は心理学を科学とは認めていませんでした」
というセリフが出てくるから、これはある程度、世界共通の認識なのだと思う。
マスコミ受け
しかし、その心理学者や社会学者に限って、マスコミに引っ張り出されやすく、社会時評にコメントする機会が多い。
そのことの不都合を、上の三品純の記事は問題にしている。
それが問題だとすれば、それもいまに始まったことではない。
そこで私が思い出す「大物」は、加藤諦三である。
加藤 諦三(かとう たいぞう、1938年〈昭和13年〉1月26日 - )は、日本の社会学者、心理学者、評論家。早稲田大学名誉教授、早稲田大学エクステンションセンター講師、日本精神衛生学会顧問、ハーバード大学ライシャワー研究所アソシエイト。1972年からニッポン放送のラジオ番組『テレフォン人生相談』のパーソナリティを務める
「社会学者」と「心理学者」を兼ね、長年「評論家」として君臨する(85歳でいまも現役!)。加藤こそ、斯界(?)の最高権威と言っていいのでは。
といって、いまの若い人は、もう加藤諦三を知らないかもしれないけどね。
でも、私の世代は、なんだかんだすごく影響を受けた。
この人は、それこそ無数に本を出してるけど、「社会学」や「心理学」の論文はひとつも読んだことない。
大学ではどんな授業をしていたのか。それでも早稲田の名誉教授だからね。
でも、この人は、「社会学」や「心理学」の権威を、あまりひけらかさなかった、と思う。
それがよかった、それが「長生き」の秘訣かも。
そして、マスコミ受けというより、直接に読者を獲得しつづけたのだから、たいしたものだ。
三品のいう、社会問題に「いっちょ嚙み」するタイプでもなく、平易な「通俗」に徹して、人生論を語りつづける姿勢には、ちょっと感服している。
さあ、経済学をバカにしよう
それはともかく、社会学と心理学は、以前ほどはマスコミにもてていない気がする。
いまは、何といっても、経済学や国際政治学が流行りだ。
とくに経済学の成田悠輔とか。定量的にものごとを語れるので、信頼できるように思える。
社会学や心理学ではノーベル賞をとれないが、経済学ならとれる(あれはインチキ・ノーベル賞だ、という説もあるが)。
とにかく、私が言いたかったのは、いまさら社会学者や心理学者をバカにしても、ほんとうはつまらない。
いま、バカにしがいがあるのは、経済学者やエコノミストだ。
というのを、チョコプラのYouTube番組を見て思いました、という話でした。
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