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ノートのないラトビア旅

旅先で手に入れた博物館や映画館の印刷物をしまっている箱の中に、何冊かノートが入っている。それを開くと、旅先で書いたであろうメモだとか落書きだとかが日付と共に載っている。

旅行のことを振り返る時は決まってスマートフォンの写真を用いるけれど、紙とインクもなかなか負けていないと思うのは、僕だけだろうか。
素敵な風景、美味しそうな料理、観光地の無邪気な人々、記念の自撮りなど、写真は旅のポジティブな側面を担当することが多い。
一方で、暇つぶしだったり美しさも何も追求せず書かれた走り書きや落書きは、ごくごく個人的な時間の流れや、ちょっとささくれた心境が薄っすら滲んでいたりする。
記念品にはならないけれど、何年も経ってからそういった思い出の品を改めて眺めてみると、当時過ごした色々な時間が頭の中に浮かんできて、くすりときたり、変にじんときたりする。
だから旅には、ノートとペンが欠かせない。
ラトビアでひとり旅をして以来、僕はそう考えるようになった。

ラトビアの思い出。


いざラトビアへ

ラトビアにひとり旅をした時、僕はノートを持っていかなかった。
出発まで10時間を切った夜中、バックパックの中身を減らそうと思って真っ先に抜いたのがノートだった。
スマートフォンがあるから、と正当化するのも早かった。
メモ、写真、録音録画、地図アプリ、情報サイトのスクショ。記録媒体としてのノートはスマートフォンに取って代わられた――そう心の中で公式声明を出し、携帯充電器が2つ入っているかどうか確認する。
ベッドのぽんと置かれたノートには、旅行の日程やホテルの予約内容が書かれた印刷物が挟んであった。
それらはクリアファイルに移し、取りやすいところに差し込んだ。

ラトビアで食べた一皿。
お皿の色と、テーブルクロスの色が優しい。

ラトビアを旅先に選んだのは、古本屋でたまたま『リガ案内』を手に取ったからだった。出発前、僕はこの本に付箋を貼り地図アプリにも印をつけた。

当時の僕は、英語は少々読めるものの、日本語以外会話の方はからっきしだった。翻訳機のことが頭から抜けていたこともあり、入国審査であくせくした後、少しだけ覚悟を決めないといけなかった。
レストランやパン屋やバスや、観光地で話しかけられるのもすべて英語。多少文法や単語が分かっていても咄嗟の対応ができなくて、難儀した。
観光をしている人たちでも、どうにか片言英語で返すと、向こうは気を悪くさせまいと気を遣ってくれたり、まるで無かったことみたいにさっさと離れてしまったりする。
ひとり旅の難しいところは、善かれ悪かれ、すべての出来事をひとりで引き受けなければならないことだ。

曇り空が似合うラトビア科学アカデミー。
高さ108mで、当時は世界で最も高い鉄筋コンクリート建築だったという。

2日くらいかけてリガを近辺をひと巡りすると少しくたびれてきて、1日だけ何もしない日を作ることにした。
もう疲れたし何もしないぞ!と意気込んだものの、身体はそこそこ元気だった。ホテルの一室でじっとしているのも何だかな、と思い結局リガ旧市街の辺りを散歩した。
花を持って足早に歩く人や、ホルンを吹く人を横目に、細い道をぼんやり歩いた。

リガの民芸品の展示。圧巻だった。

休憩がてらお店に入ろうと思い、近場のカフェに入る。
カフェには僕と、もうひとり観光客だけがいた。
コーヒーとベリーのクランブルケーキを少しずつ食べていると、気さくな店主が話しかけてくる。少しだけ言っていることが分かる気がして、会話を試みた。
「フロムジャパン、フロムジャパン」
「アイムワーク、ウェン……バックトゥジャパン」
「ラトビア、ネクストドイツ、アイワナ」……

「君のこと、日記に書いていい?」と店主が訊いてきたので、どうにか「シェア、オフコース」と返す。
変に身振り手振りの方が多かったからか、クランブルケーキがさっきよりも美味しく感じられた。

クランブルケーキとエスプレッソ。
どのアンティークの食器も素敵だった。


ケメリ国立公園へ

次の日、少し元気になり、予定していたケメリ国立公園に行くことにした。
駅を降りてちょっと歩くとすぐ林で、そこは光が均一にさしていて見晴らしが良い。
ハードロックをガンガン鳴らしている地元の学生たちを抜かし、ふと横を見ると、樹々の中に墓石らしき石が点々と立っていた。そこは、苔と樹木と光の加減で緑の紗のようになっていて、その空間の中にハンチング帽を被った枯れ木のようなおじいさんが、椅子に座って眠りこけていた。
おそらく管理人か地元の人だろうが、突然現れたので幽霊か何かかと思った。

ケメリ国立公園の湿地への道すがら。

ケメリの湿地は春や秋の始まりを思わせる色をしていた。植物の緑は淡くて、赤みは褪せている。晴空の色は日本のそれではなくて、空気が淡い色をしている。
辺りは開けていて、風は厚みを感じるほど強い。ちょっと寒いな、と思った。風のある遠景を望むとどこか清々しい気持ちになるけれど、この湿地は薄ら寒い。ウィンドブレーカーのチャックを首まで上げた。
細い板をぎしぎしさせながら歩き、道を譲り譲られながら1周。
途中、写真をお願いされ撮ってあげたりもした。

ケメリ国立公園の湿地。空が落ちてきそう。

帰り、またあの泥濘んだ道を引き返さなければいけないと考えると、ちょっと気が滅入った。
歩き出すと、背後でクラクションが鳴った。
振り返ると、中国人らしき女の子が駆け寄ってきて「帰るの? よかったら私たちの車に乗る?」と英語で話しかけてきた。
彼女は、湿地で会った人だった。彼女とその友人らは僕に道を譲り、僕は湿地の高台で彼女たち3人の写真を連写機能で何枚も撮った。
「いいの?」と訊くと「もちろん」と返ってくる。

湿地について書かれたボードのひとつ。
読めるところだけ読んだ。

片言英語の出番だ。
「I'm from…… Japan, Tokyo.」
「Enjoy…… some beer and…… some boiled fish.」
「Not bad the hotel…… hotel I stay.」……

何か訊かれるたびに、こんな感じでとにかく5秒くらいかけて返す。
リズムが生まれない会話はもう慣れっこで、身振り手振り話した後は向こうからの言葉を必死に聞いた。
彼女たちは女性3人でラトビアを回っているらしかった。1人は地元の子で、後の2人はアメリカから来たという。
先ほどの中国系の女の子が、
「ラトビアのチョコレート博物館には行った? え、ないの? 絶対行った方が良いよ! ねえ?(みんな頷く)ラトビアはチョコが美味しい国なのよ!」と熱心に語る。
そして、ピンクと青のフィルムに包まれたチョコを1粒くれた。
ありがたく食べてみると、まあ素敵な味。下顎からこめかみに向かって、美味しさがふわりと駆け上がってきた。
「え、美味い」と戸惑っていると、一同声を出して笑った。

本当こんなことあるんだ、と呆然としていると、頭の中に旅行のアイディアふっと湧いてきた。
僕はリュックの中を漁った。結構漁ったが、目当てのものは出てこなかった。
ノートは今、自宅のベッドの上に置きっぱなしなのだ。
「どうしたのよ?」
慌てている僕の姿を見かねて、運転席のラトビアの女の子が訊いた。
「サイン」と僕は言う。
「Sign?」
「annnn... Autograph. Your autograph I want. But, nothing, paper.」
どうにかそう言う。
僕がその時考えたのは、旅行中に出会った人のサインをもらおうというアイディアだった。これなら英語ができなくても、コミュニケーションが取れるし、思い出にもなるんじゃないかと思ったのだ。
僕の言葉を聞くと、中国系の女の子がリュックからノートを取り出した。
1ページ破って、そこに眼のマークをさっと描く。
「これ、私の名前。アイリーンって呼んで」
「アイリーン、thank you, thank you.」
「Take it easy.」
本当にこんなことあるんだ、と笑ってしまった。
紙を回してみんなで名前を書いた。僕も書く。アイリーン以外は、みんなアルファベットだけを書いた。(そのせいか、アイリーンしか覚えていない)アイリーンは僕の名前を見て「これなんて読むの?ドイツ語?」と、僕に何回も発声させる。やたらと a が続く氏名なので「あなたの名前、アラバマみたいね」とアイリーンの隣の子に言われる。
泥濘んだ道を抜けて、あっという間に駅に着くと、僕たちは別れた。
あのチョコ本当に美味しかったなあ、と包み紙を開いて眺めていると、ノートの切れ端をもらい忘れていたことに気がついた。

ケメリの駅。電車の色が遠くからでもくっきり見えて可愛らしい。

ケメリからリガに戻り、昨日と同じカフェで休憩する。
店員の女の子が、ミュンヘンから来たという男性と会話している。奥には日本人観光客のお母さんと娘さんが帰りの飛行機の話をしていた。
クランブルケーキと抹茶ラテをいただいていると、店主と目が合った。
「どこ行ったの、今日は?」
「ケメリ国立公園」
「いいねえ。あそこはね、時々行くよ。観光客にも人気なんだよ」
ああ、そういえば、と店主は改まった感じで尋ねた。
「ねえ、そういえば君の名前は?」
僕は答えた。綴りが分からないからとメモとペンを渡される。
小さめにアルファベットを書きながら、紙いっぱいに漢字を大書しても良かったななどと思う。漢字は喜ばれるから。
「なるほど」と店主。「僕はグンティス」
「どう書くの?」
彼はレジの前のショップカードを一枚取ると、出の悪いボールペンでぐりぐりと書いた。
ショップカードをもらうと、僕たちは当然のように「Nice to meet you」と握手した。
グンティスはカフェを営むとてもフレンドリーな男性だけれど、ちょっと強面で、握力の方もなかなかに強かった。
僕はこのショップカードを失くさないように、スキミング防止用の黒いポーチのポケットに差し込んだ。

リガ旧市街からほど近いキープサラ島。


ラトビア最終日

最終日、僕はやはりグンティスの店でクランブルケーキを食べていた。
「明日ここを発つよ」と僕が言う。
するとグンティスは「君が毎日同じくらいの時間に来て、ずっと同じケーキを食べていたのが不思議で仕方なかった」みたいなことを言って、前と同じように僕の手をがっちり握った。
確かにその通りだと思うと、急に恥ずかしくなった。

↑ グンティスのお店。今や人気店である。


グンティスからもらったショップカードを見るたびに、僕はノートのないラトビアの旅を思い出す。
次こそはノートを持っていこう。
そして、チョコレート博物館にも行ってみようと思う。

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