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『都市と都市』感想:「見えているのに『見ない』生活」を僕は送っている
もし、あなたの家のお隣さんや、道路を挟んで向かいにあるお向かいさんが「隣国」だったとしたら?
そして、その「隣国」の家を見たり、その家の人と話しただけで「犯罪行為」とされるような世界だったら?
先日SF小説の『都市と都市(チャイナ・ミエヴィル)』を読み終わりました。
「べジェル」と「ウル・コーマ」という2つの架空の都市国家が舞台で起こった殺人事件を捜査するハードボイルドな小説なんですが・・・
この2つの国家は「同じ都市」に存在しているのに「お互いを見たり話したりしてはいけない=犯罪者にされちゃう」ってところがすごくおもしろかったです。
この「同じ空間にいるのに『見ない』『聞こえない』ようにしている」って、なんか実生活でも普通にあるよなーという感じで・・・
あり得ないのにあり得る気がしてきて、読んでいくとどんどん「リアルになる」感覚があって、「見えているのに見ない人々の世界」に、すっかりのめりこんじゃいました。
今回は『都市と都市』の「同じ都市にいるくせに『見ない・聞かない』の面白さ」について、備忘録もかねてざっくばらんに書きたいと思います。決定的なネタバレはしていないです。
都市と都市:簡単なあらすじや作品紹介
あらすじ
ふたつの都市国家〈ベジェル〉と〈ウル・コーマ〉は、欧州において地理的にほぼ同じ位置を占めるモザイク状に組み合わさった特殊な領土を有していた。ベジェル警察のティアドール・ボルル警部補は、二国間で起こった不可解な殺人事件を追ううちに、封印された歴史に足を踏み入れていく……。
同じ場所にいるのに『見ない』ようにする2つの都市の人々
『都市と都市』のべジェルとウル・コーマは物理的な仕切りがないのに「別の都市国家でお互い見たり話したら犯罪者になっちゃう」という、東西冷戦もびっくりな不思議かつ独自ルールな世界。
「もとは同じ都市なのに2つに分断された都市」というと、かつての「東西ドイツ」の「ベルリンの壁」みたいな物理的に無理くり2つに分断された都市が思い浮かびました。でも、ベジェルとウル・コーマはなんの壁も仕切りもない。
「あの通りはべジェルで、一本曲がったこっちの通りはウル・コーマで…」みたいな。
それでいて、自宅から余裕で見えるご近所さんの自宅が「あちら側」の国なので、うっかり見たりしたら「ブリーチ行為」という犯罪になっちゃう・・・
この「ブリーチ認定」されるのを人々はめちゃくちゃ恐れてて、「隣国の人とかかわる」というリスクを絶対に避けようとするんですよね。
通りですれ違った人が隣国の人だったら慌てて目をそらす様とか、すぐ近くのお店とかでもめ事があっても、同じ国の人や場所じゃなかったら「見ざる聞かざる言わざるを貫く」さまとか、滑稽だけど妙に迫真に迫るリアリティで、しだいにこの独自ルールが癖になってきます。
「こんなこと思いついて+ディテール描きこんで+リアリティまで持たせちゃう作者の想像力どうなってるの?」と素直にアイデアに感嘆しちゃいました。
見えているのに『見ない』生活を私たちは送っている
思えば、僕自身も「同じ空間にいるのに『見ない』ようにしている」「『見る』ことは違反のように感じてしまって目をそらす」って経験、なんかあるよなあという、ある種の居心地の悪さも思い起こされたんですよね。
同じオフィスにいるけど他部署の上司が部下にパワハラまがいに怒鳴っているのを「見ない」ようにした
同じ町内だけど野良猫に勝手にえさをあげている高齢者を「見ない」ように通り過ぎた
飲み会で上司たちがある部下の悪口を言っているのを「聞こえない」ようにふるまった
『都市と都市』のような「生まれつき「あちら側の国のことを見ない訓練を受けている」という特殊環境とは比べ物にならないものの、「同じ場所にいて、見えるし聞こえるのに『見えない聞こえない(ふりをした)』という経験」、僕は本当にこの36年の人生で大なり小なり何度もあったなあ…と思ったんですよね。
『都市と都市』の中で、この「あちら側を『見ない』『聞かない』『話さない』ようにすることで安定安寧を保つ」という社会は滑稽で居心地が悪いとともに、読者自身も少しずつ「見ない」生活に慣らされていく不思議な感覚・面白さがあります。
作者(ミエヴィル)が丁寧に、少しずつ積み重ねていく「日常」が、現代社会の固有名詞(Google・Amazonなど)の登場と相まって、べジェルとウル・コーマがすこーしずつなじんできて、いつの間にか読者たちも主人公のボルル警部補とすっかり同じ目線で「あちら側」「こちら側」と見てしまう感覚に陥っている…ディテールの描きこみがすごいからこそなんだなと思いました。
べジェルとウル・コーマの内実が徐々に明らかになってくるとともに、どちらにも属さない重要な登場人物も次々出てきて…という、犯人捜しミステリーとしての面白さと比例してこの世界が明らかになっていくのが大変気持ちの良い楽しさがありました。
私たちは「こちら側」「あちら側」両方で生きていけるのだ
主人公のボルル警部補は「こちら側」「あちら側」の両方を捜査の関係で経験して、そして犯人捜しの決着にたどり着きます。
決定的なネタバレにならないように書きますが、ボルル警部補が劇的な体験を経て、「私たちがどちらで生きているのかという哲学的な問いがあるが、私は『狭間であり両方で』生きているのだ」みたいな方向性になっていきます。
この「あちら側」と「こちら側」どっちじゃなくて「狭間であり両方」という立ち位置を見出していくのは、実生活でもよいヒントになりそうだなと思ったんですよね。
どっちつかずになりましょう、という意味ではなくて「こちら側」も「あちら側」もない、自分の信念や価値観をもって世界と対峙していく感じ。「対峙」というより「(自分にとって)あるべき世界を守る力」といえばいいでしょうか。
以上、『都市と都市』を読んで感じた雑感でした。
ハードボイルド小説としても、SF小説としても楽しめるので、ぜひ読んでみてください!