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実績ゼロで、書籍翻訳の依頼をいただいた話

今現在書籍の翻訳に携わらせていただいている作家の方とはじめてお仕事をご一緒してから、1年半は経ちました。

きっかけは、知り合いからいただいた「エッセイを翻訳しないか」という話。その作家の方が日本のメディアに連載を寄稿することになった折、日本語訳を担当させていただくことになりました。

お誘いいただいたのは、私が英語を読めるからという単純な理由なのですが、前々から翻訳に興味があった私に断る理由はありません。そして嬉しいことに、初回のエッセイの和訳を完了した直後、新作書籍の和訳を依頼してくださったのです。

実績ゼロでも書籍翻訳のご依頼をいただいた理由

正直、私のライティング力はまだまだです。小説を読むとき、オンラインメディアを読むとき、書き手の幅広い表現力に圧倒されるばかり。さらに翻訳者は、書き手の意図をしっかりと汲み取り、その意図を読者にきちんと伝えるという、いわば書き手と読者の橋渡し的存在です。書く力だけに頼っていては務まらない、深い想像力と共感力、そして自我を抑える必要がある仕事だと実感しました。

それでも書籍の翻訳を任せてくださったのは、「真剣に文章と向き合ってくれたから」だと、作家の方があとで教えてくださいました。

私的には「真剣に」というよりは「試行錯誤」「もがき苦しみながら」という表現がしっくりくるぐらい、初回エッセイの和訳を提出するときは半泣きだったのですが…。それでも、効率の良し悪しとかコスパタイパとかに引っ張られず、作家の伝えたいことを時間をかけて汲み取り、この心境や情景は日本語であればどのように言語化されるのだろうか、とたしかに真剣に考えていたなぁと振り返って思います。

ときどき「どうして実績ゼロなのに書籍翻訳に携われたの?」と聞かれるのですが、一番の理由は「運」です。きっかけとなったエッセイがあまりに美しく、結果として惚れ込み、つい時間を忘れながら和訳をしたこと。そしてまず第一に、和訳の話を縁あっていただいたこと。

そして二番目の理由は、「とりあえず目の前の課題を、今の自分でできる限り頑張った」ということ。自分で頑張ったというのは少し気が引けますが、
身近な人が「頑張った」って言ってくださるので、これはもう素直に受け取るとしましょう。

書籍翻訳を通して気づいたこと

書籍の翻訳が終盤を迎えています。振り返ると、作家の方が伝えたいことをうまく掴めないときや、「〇〇って言ったほうが正しくない?」と思ったこともありました。

決して、作家の文章が悪いわけではありません。それほどに今まで、私が自分の感覚で生きていたということ。友人や恋人とのすれ違いは、相手の気持ちを思うより自分の気持ちを押し付けてしまっているときだし、相手を間違いだとジャッジするときは、自分が正解だと思い込んでいるとき。ここ5年ぐらいで、そんな自分が徐々に薄れてきました。しかし翻訳をしていると、押しつけがましい自分が出てきますね。そんな自分が、まだいることを教えてくれる貴重な機会となりました。

私がご一緒させていただいている作家さん自身、長く日英翻訳を手掛けてきた方です。その方は、相手の表情や言葉のトーンだけで本音を見抜きます。翻訳者としての腕前は日々のコミュニケーションと深く繋がっていることを痛感させられます。

将来チャンスに恵まれるかを考えても意味はない

書籍翻訳に一度関わったからといって、私は「すごいことをした」とは思えません。大事なのは、これからも機会を掴んでいくこと。

私は将来、海外のエッセイを翻訳していきたいという夢があります。自分が病気で苦しんでいたとき、新しい価値観を教えてくれたのが英語の自叙伝でした。海外の価値観が日本より優れているとは思いませんが、価値観の輸入先が増えることは、より幅広い人生観や学びとの接点も増えるということ。誰かの背中を押す機会を増やせたらいいなぁ、なんて思います。

だけど、本当に将来そんなチャンスに恵まれるのでしょうか?そんなこと考えても、「神のみぞ知る」という答えしか出てきません。今は、いつか目の前にチャンスが転がっていたとき、自信を持って拾える自分になれるよう準備をしていくのみ。

そして自分にできるかできないか分からなくても、ひとまずやってみるのみ。その都度、一生懸命やってみるのみ。

フリーランスでライティングや翻訳をはじめて2年も経っていませんが、チャンスは山ほど転がっていると実感させられます。探してみるか探さないか、挑んでみるか何もしないか、それだけだよねと心配性の自分に言い聞かせています。

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