【再編|絶望三部作】第1話 ③:Evermore(第3章:イタリア旅行記)
第3章:イタリア旅行記
◆ 第1話:いざ、イタリア ③
ローマを去り、次にふたりが向かった先は「フィレンツェ」だった。
この街に到着する頃、西の空はオレンジとインディゴに染まっていた。
ホテル近くのリストランテでラビオリとワインの簡単な夕食をとり、早々に宿へと戻り、シャワーを浴びて、その日はすぐに寝た。
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次の日、俺とシュンは地元の旅行会社が催行している半日間のバスツアーに参加した。
向かった先は、フィレンツェに隣接している都市「ピサ」だった。
無論、あの大理石で出来た ” 斜塔 ” へ会いに行くことがそのツアー最大の目的だった。
バスの中で「幼い頃からピサの斜塔をこの目で見たかったんだー」と語っていたシュンは、その " 憧れ " のタワーとご対面した瞬間、「すっげー」と、少年みたいな感嘆を漏らしながら、茶色の垂れた裸石をうるうるさせていた。
そして、296段ある斜塔の階段を息も切らさず、自前の健脚ですいすいと駆けのぼっていった。
あまりにも軽々と天を目指すものだから、シュンの背中には羽がついているのではないかと、本気で思い込んでしまうほどだった。
一方、俺の身体は塔の半分も登り切らない段階で悲鳴を上げた。日頃の運動不足のつけが、ここぞとばかりにまわったのだ。
だが、塔のてっぺんにさえのぼってしまえば、すぐに穏やかな気分はやってきた。
赤や黄色やオレンジで色づき始めたトスカーナの美しく、すこし寂しい秋季に、中年男の ” 辛苦 ” はすっかりリセットされた。
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バスツアーの翌日。
まだあたり一面薄暗い空気の中、ふたりはフィレンツェの街並みが一望できる「ミケランジェロ広場」に来ていた。
何故、早朝に起きてその高台へ向かったのかというと、この街の夜明けに立ち会いたいと思ったからだった。
昼間は観光客でごった返す名所も、この朝は俺とシュンのふたりだけで独占させてくれた。
霧が混じった冷たい空気が、川の上流の湧き水のようで、美味しい。
「太陽、まだかなー」
「そろそろ出てくる頃だろう」
濃紺の膜で覆われていた街並みは、徐々に薄紫へと変わり、そうこうしているうちに淡い鴇色へと移行した。
そしていよいよ東の空には熟したキンカンみたいな甘酸っぱい太陽が街を覗き込むように顔を出し、すっかりフィレンツェは朝に染まった。
「すごいね。きれいだね。神様の色だねー」
「うん、そうだな」
朝焼けに煌めくアルノ川。その川に架かるヴェッキオ橋。橋の向こうには赤茶色の屋根がひしめき、街の中心には大聖堂がそびえ立っている。
聖堂の隣にたたずむ鐘楼の鐘がゴーンと鳴った。
その荘厳はふたりがこの街にいられる時間があと残りわずかであることを告げる、切ない色をしていた。
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フィレンツェ訪問の最後に、ふたりは「サン・マルコ美術館」を訪れた。
そこは元々カトリックの修道院として機能していた施設で、その修道院の高僧「フラ・アンジェリコ」が描いた絵画『受胎告知』が飾られている。
そして、その絵はシュンの ” お気に入り ” でもあった。
ふたりが出会って間もない頃、「僕、この絵が大好きなんだ」と、シュンはよく話してくれた。
大好きだ、と ” 豪語 ” していたにもかかわらず、今回のイタリアの旅行でフィレンツェに行くことが決まっても、彼は何故か「サン・マルコ美術館に行きたい」とは、ひと言も口にしなかった。
自分のことになると急に遠慮がちになるのがシュンだった。だから、俺がそんな彼の本心を押してあげるしかなかった。
「せっかくだから、フラ・アンジェリコ、観に行こうよ?」
俺の唐突な提案にシュンはきょとんとしていたけれども、「憶えててくれたんだ…」と、すぐに彼の垂れ目がやってきた。
その美術館は町の中心からはずれたところにあった。
質素としか言いようのないたたずまいだったけれども、質素さゆえの堅実性があった。
中庭は季節の草花で彩られ、手入れは行き届き、院内の独房の一室一室には、キリスト教の教えを示したフレスコ画が飾られていた。
信仰心の本質が宿っているように思えた。
シュンは「ここの空気は、懐かしい味がする」と言い、勝手知ったる感じで、目の前をすたすたと猫のように歩いていった。
彼の細い背中を追いかけ、古い階段を上った先に、” その絵 ” はあった。
「…、やっと、会えた…」
シュンはひとりごとのように、ぽつりとつぶやいた。
「人は誰しも人生で出会うべき絵画がたったひとつだけあるとするならば、僕の絵はきっと、フラ・アンジェリコの『受胎告知』なのだと思う。中学の美術の時間にこの絵画の存在を知った瞬間から、ずっとこの絵に対する信仰が僕の心の中にはあった。人生の友人と出会えた僕は、もういつ死んでもかまわない。僕は、僕の人生のことがよく分かったし、僕がどう死ぬのかも、分かった」
相変わらず奇妙な言い回しをしているな、と思ったけれども、シュンにとってこのフレスコ画は、ただの ” お気に入り ” なんかではなく、人生を倶にする…、あるいは生き死にを左右するほど神聖な抽象であるのだろう。
平然と希死念慮を口にするその様は、いかなる時もキリストと共に過ごすことを信条としていた「フラ・アンジェリコ」と似ている気がした。
「それでも今はまだ驚くことばかりだ。僕の心の海は荒れている。でもきっとすぐに受け入れられると、思う…」
彼が見つめている絵画の向こう岸の世界は俺には遠すぎて、どんなに走っても、腕を伸ばして叫んでも、届きそうにもなかった。
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「あの絵のこと、有季が憶えていてくれて本当に嬉しかった。ありがとう」
「いや…、俺もシュンの大切な絵を一緒に鑑賞することができて良かったよ」
「別世界にいるみたいだった…。でも、あの絵はいつも僕の側にいてくれたような気もする…」
「力まず、自然に。そういうことがこの世の真理なのかもしれないな…」
「悔いを残さずに、生きていけそうだよ」
修道院を出たふたりはこんなへんてこな会話をしながら、サンタ・マリア・ノヴェッラ駅までのうらぶれた道を朗らかな気分で歩いた。
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ヴェネツィアに着く頃には、だいぶ陽が西に傾いていた。
島と本土を結ぶリベルタ橋を列車で渡ったとき、線路沿いに並んだ竹林みたいな電信柱のシルエットがやけに切なく揺れて見えた。
国鉄駅の改札を抜けると、目の前にはフェリーターミナルが見え、岸辺に打ち付けられる波の音がそっと耳に届いた。
セイヨウカノコソウっぽい潮の香りがいくつもいくつも急き立てるようにやってきた。
そして、西日のオレンジを全身に受けたヴァポレット(水上バス)が接岸する様子は、産卵のために川を遡上したサーモンに見えた。
シュンとふたりでリアルト橋に登り、ヴェネツィアの街を見渡した。うねうねとした巨大な海蛇みたいな運河が眼下に広がっていた。
そして、この街には渋谷や新宿のような不自然で人工的な灯りはひとつもない。
ほのかに揺れる琥珀色が蛍のようできれいだった。淡い光に照らされたシュンの横顔も幻のようだった。いつまでも、いつまでもこの景色が続いていて欲しいと、思った。
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翌朝、ふたりはイタリア最古のカフェ「フローリアン」に立ち寄って、軽めの朝食をとった。
優雅な一室でカフェ・ラッテを味わっていると、ふっと胸の真ん中に憚ることのない既視感がどっと流れ込んできた。
なんだろう。この妙な懐かしさは。
そうか、分かった!
ここはきっと「クロノス」なのだ。ソファの豊かな座り心地といい、そこはかとなく灯る趣といい、少し歪んだ時間の流れといい、何もかも ” あの喫茶店 ” と、そっくりだった。
シュンは隣で幸福そうに、にこにこと俺を見つめていた。
今、ようやく分かったよ。
君がどうしても、” このカフェ ” に俺と行きたがっていた理由を。
クロノスは、ふたりが初めて出会った日に、 ―。
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午後。潮風香るかすんだ青の下、ふたりは細長い月みたいなゴンドラに揺られていた。
まるで ” ダンジョン ” のようなクランクだらけの水路をごつごつとしたたくましい腕でオールを握ったゴンドリエーレがするりするりと見事にとおり抜けていく。
その度に、「すごいねぇ、すごいねぇ」とシュンは一眼レフを片手に、感心の眼差しを漕ぎ手に向けていた。
大運河に出た。
空のトルマリンに反射してエメラルドに染まった波は指でつまんだように尖っていた。
そして、地中海の気まぐれな波に翻弄されたゴンドラは、ぐらんぐらんと野蛮に揺れ始めた。
そんなアドリア海の洗礼に、金槌の俺はすこぶる慌てた。
泳ぎが得意なシュンは余裕そうに笑っていた。栗毛色の髪を秋の潮風にさらさらとなびかせながら。
そんなあべこべのふたりをサルーテのてっぺんに凛と立つ聖母の瞳には、どう映っていたのだろうか。
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気づけばこのイタリア旅行も、終わりに近づいていた。
ヴェネツィアを去る前、狭い路地裏にたたずむ小さな土産物屋でヴェネツィアン・グラスをシュンとお揃いで買った。
事前に仕入れておいたネットの情報で「イミテーションも多い」と脅されていたけれども、吟味する時間もなかったし、どれが本物で、どれが偽物なのか、さっぱり見分けがつかなかったから、お互いにピンときたものを購入しよう、と決めていた。
「有季、これなんか、どう?」
「いいね、色彩がきれいだ。俺も気に入ったよ」
おそらく店に入って買って出てくるまで、5分とかからなかったと思う。
縦に6色のストライプが入った、もしかしたら偽物かもしれない異国情緒にあふれたグラスが、イタリアの旅でふたりが買った、唯一の記念品となった。
<第3章:イタリア旅行記|第1話 ③:いざ、イタリア・了>
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