【再編|絶望三部作】第1話 ②:Evermore(第3章:イタリア旅行記)
第3章:イタリア旅行記
◆ 第1話:いざ、イタリア ②
イタロを降り、ローマ・テルミニ駅のプラットフォームに立つなりシュンは「ローマだー」と、目を星のように輝かせながら、そう言った。
駅の外へ出ると「街全体が巨大なタイムカプセルに閉じ込められてしまっているかのようだね」とも言っていた。
たしかに大都市「ローマ」は、イタリアの首都としてコンテンポラリーな機能を果たしながらも、コロッセオのような豪壮な建造物からフォロ・ロマーノに散らばる無数の遺跡の断片に至るまで、ところ構わず歴史がごろごろと野良猫みたいに転がっていた。
「早く、『ローマの休日』の ” 聖地 ” めぐりしたいよー」
シュンは、俺を急かしたが、
「今日はもう遅い。明日、朝イチでいろんなところをまわろう」
と、西日に照らされた彼の横顔を諭した。
*****
翌日、ふたりが最初に向かった場所は「サンタ・マリア・イン・コスメディン教会」だった。
あまり聞き慣れないその建物の外壁には「真実の口」として知られる、あの石造りの男の顔の彫刻が飾られている。
早朝からすでに聖堂の前には、石像と撮影するための長い待機列がのびていた。
一時間ほど並び、順番がまわってくると、まずはシュンがその巨大で不気味な石顔の前に立った。
それからシュンは躊躇しながらも目の前の石像の真っ暗な口の中に細く長い彼の指を挿入した。
いいぞ、シュン。その不安げな表情…。まるで、すっかりアン王女のようではないか。
「シュン、こっち向いて」
俺はケータイのカメラを、彼に向けた。
ぎこちないシュンのその表情を、すべて残さず、俺は網膜に焼き付けた。
*****
次にふたりが向かったのは、映画のロケ地としてとりわけ人気の高い観光スポット「スペイン広場」だった。
シュンは麗しいこの石造りの大階段で、アン王女に倣い、優雅にジェラートを堪能することを目論んでいたのだが、映画が撮影された時代から随分と時が流れた現在、階段での飲食は禁止となっていた。
敢えなく ” 夢 ” が打ち砕かれたシュンはしゅんとなってすっかりしょぼくれていた。
その切ない背中に「近くに ” ベンキ ” があるみたいだから、そこでジェラートを買って帰ろう」と慰めると、彼は少年みたいに「うん」とうなずき、階段をたったったっと、駆け下りていった。
*****
ロショ…、なんとかという、地元でも有名なリストランテで夕食をとった。
生ハムの盛り合わせと白ワインで乾杯した後、濃厚でベーコンたっぷりの名物のカルボナーラをぺろりと完食した。
夕食後、ほろ酔い気分でホテルまでの帰り道をぶらついていると、やたらきらきらとしたエデンの園のような美しい場所と出会ってしまった。
トレヴィの泉だった。
アクアマリンの水面はせわしく乱反射し、大理石の彫刻はまばゆい黄玉の光を浴びて鏡のように輝いていた。「シャンパンの海へダイブしてしまったかのようだね」と、泉の光に照らされた淡いシュンの横顔はそんなこと口にしていたが、それはなかなかよい婉曲だと、俺はその時、思った。
ツーリストは一様にスマートフォンを片手に持ちながら、サバンナのヌーみたいに群れをなしてぞろぞろと歩き回っていた。
そして、あっちにもこっちにも世界中のあらゆる言語があふれていた。
まるでバベルの街のようだった。
また、この地へ戻って来られますように…、というお約束の ” あの儀式 ” は、どういうわけかふたりとも恥ずかしがってやらなかった。
やらなかったことを、俺は今、最高に後悔している。
もし、あの日、あの時、あの泉にコインを ” 一枚 ” 投げ入れていれば、ふたりの悲しい未来は変わっていたのかもしれない。
そう思うと ―。
*****
翌朝、俺たちはA線の地下鉄に乗ってバチカンへ向かった。
カトリック教会の総本山「サン・ピエトロ大聖堂」の堂内にある大理石彫刻、” ピエタ ” に会いに行くためだった。
サン・ピエトロのピエタは、ルネサンスを代表する芸術家、ミケランジェロ・ブオナローティの最高傑作とも称されている。
ミケランジェロは生前、4体の「ピエタ像」を手掛けているようだが、その内の3体は、制作期間が彼の晩年に集中しているらしい。そのクリエイティビティの源となっていたのは「自分の墓に飾るため」だった、とも言われている。
彼が制作したピエタ像の中で、俺が個人的に好きな作品は、ミラノの「ロンダニーニのピエタ」だった。未完成ながらも死期を悟った彼自身の彫刻家としての矜持が色濃く反映されたマスターピースであると感じているからだ。
だが、” 完璧性 ” という意味においては、バチカンの「ピエタ」の右に出るものはないだろう。
聖母マリアとその息子が纏う流れる衣の曲線に、岸壁に打ち寄せる波のようなダイナミクスを感じる。
絶命したイエス・キリストの表情には抜け目なく死が投影されているけれども、血管のうねりや隆起する肉付きには、今もなお、連続した生が宿っている。
ひょっとすると毛髪や髭や爪なんかは、真夜中にニョキニョキと伸びているんじゃないだろうか…、そんなぞっとするような妄想をしてしまうほど、バチカンのピエタにはあくなき生への執着を感じた。
この作品がルネサンスの ” 完成形 ” と謳われるのも、無理はない。
死んだ我が子を抱きかかえながらそっと微笑むマリアの口元には、不思議と夢や希望を感じさせる。
祈りのような彼女の慈しみが、一層、崇高で鮮烈な絶望を映し出している。
そんな彼女の気持ちを、今の俺なら、少しは理解できているつもりだ。
愛しい者と別離れる苦しみは、ひとりぼっちの楽園を永久に裸足で歩き続けるようなものなのだということを…。
<第3章:イタリア旅行記|第1話 ②:いざ、イタリア・続>
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