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消費される命と記録される歴史

21世紀に物心がついた僕らにとって
全体感なんてものは遠い存在だった。

小中高の画一化教育課程なんて
どこか上の空で俯瞰していたし、
アイデンティティなんてあるようでない
ファッションのようなものであった。
翌日には、アメリカ国旗柄のスマホで
記紀神話を調べたりなんかしていた。

頭の悪い大学生のレポートの始まりは大抵、
SNSの普及のせいで〜、とか
IT革命によって〜、とかで始まる。

そんな当たり前のことを
大真面目に頷いて話せるくらいには
僕らは現在に実感がなかった。

明日も母さんは母さんで、兄弟は兄弟。
彼女は彼女で、友達は友達のまま。

面と向かって本当に話したいことを
話す勇気もない。

どうしても伝えたいことは
画面に文字を打って送信。
3秒後には、充分に話し終えた気持ちになっている。

どんよりしたら
ネットで調べてみる。
ある人は「万事うまく行っている」と言う。
ある人は「もう一度やり直した方が良い」と言う。

何も考えずに前者を信じる。
(または後者を信じる)
自分にとって都合の良いコトバを
聖書よろしく大切に抱きかかえて
たちまちのうちに忘れる。

神さまを信じている友達を陰で馬鹿にする。
本当に辛い時は誰しも不思議と何かに
祈ると言うのに。

そうして右も左もわからないまま
大人になる。

物心ついていたつもりが、
自分は全く首の座っていない赤子だと
思い知らされる。

それが怖くなって誰かに電話する。
1時間後には何に悩んでいたのかを忘れる。

簡単に死について考える。
本当はその気なんて無いのに。

皆、なにかと多様性というコトバで
ケリをつけたがる。
そんなものはただの先延ばしだ。
真実なんてものの本当の価値は
自分の信念によって裏付けられるというのに。

僕の創作活動は、そういった恐怖がもたらす、
背中にナイフを突きつけられるような感覚が
原動力になっていた。

正直、社会になんて思うことはないし、
あったとしても、
たった一人の崇高な魂が
世界を変えることなんか絶対にない
ということは人類の歴史が証明してしまっている。

マイケルジャクソンやビートルズは
音楽で世界を平和にできなかった。
差別と偏見、数発の弾丸が彼らに
降り注いだ。

イエスは弟子に裏切られ、
釈迦は死後に教えをねじ曲げられる。

そうした消費された命の上に僕は
生きている。
1世紀後にはまた次の僕が現れる。

そうやって無意味な積み木を
重ねて、鬼に蹴飛ばされるだけの星に生きている。
現在をこの世と定めた人は愚かだ。
全くの地獄じゃないか。
(諸説ある)

2019年が目の前を去っていく光景を眺めながら
正解・成功の人生なんてないことに
ぼんやりと気付く。

やりたいようにやればいいし、
生きたいように生きればいい。
たった半世紀前はそれが出来なかった
らしいのに

手を伸ばせばすぐに届きそうな
距離にあると僕らは中々掴めずに
億劫になる。

イマというものは1秒後には
さっきになり、それは思い出となって
気付けば過去に変わる。

明日やろうは馬鹿野郎で
イマやろう今野郎(コンニャロー)だ。

どちらにせよ蔑まれるなら
僕は僕のままで蔑まれたい。
四つの数字を塗り潰すだけの
墨のような命になんかなりたくはない。

そういえばgoing unther groundが
歌ってたな、なんだっけ……

「使い古した言葉で強くなれる、僕らの日々は」

だったかな。

ともあれ、希望を抱いて背中をちょいちょい
脇見しながら
今日も台本に勤む。

ここまで書いて気付く。
散文も散文、やけに散らかった文章だ。
エッセイなんだからそれで良いじゃないと
ぼんやり考えながら。

ああ、今日も寒いなあと
独言を呟いて。


写真:中村正行

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