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2024/7/20 生きる意味

10代の頃につけていた昔の日記帳を読み返してみると、たびたび出てくる言葉がある。
それは「生きる意味って、何だろう」。

今思えば、そんな手垢まみれのようにも思える言葉を、10年以上前の僕はあきれるほど、何度も何度も書き綴っていた。
 
社会に出て10年近く、30代に突入した僕の考えることでさえ、大体が「目覚ましをかけずに、ずっと寝ていたい」だとか「美味しいものでも食べて、ゆっくりしたい」くらいなものなのに、今よりずっと狭い世界の住人だった当時の自分が、「生きる意味」などといった大層な代物など見つけられるはずもない。
 
これまでの人生で多少は酸いも甘いも噛み分けてきたはずなのに、近頃は特に目先のことしか考えられなくなっている気がする。
もしかしたら、自由に思いに耽る時間が足りなくなればなるほど、僕の視界は狭くなるように設計されているのかもしれない。だから、人生を俯瞰するために「生きる意味」について、日記に書く程度には頭を悩ましていた当時の僕が羨ましくもある。
 
「あとどれくらい、この世界で生きていかなきゃならないのだろう?」
平均寿命から当時の年齢を引いてみて、あまりにもたっぷり残されている現世の滞在時間に、少しばかり絶望もしていたのかもしれない。
まだ30代ではあるが、最近は「この段階までにはアレやコレをしておきたいから……って、もうあんまり時間ないじゃん!」というテンションの方が多い。年を重ねるとは、つまりはそういうことなのだろう。
 
あとは、将来の不安を解消したいがために、自らに壮大な問いを課していた説もある。
今では良くも悪くも「自分にはこれしかない!」というものが見つかったからこそ心が安定してその道に精進できているが、それを発見できたのもつい最近の話。

ましてや10代の頃なんて、数年後に自分はどうなっているのかすら満足に見通せなかったのだから、恐らく数多くの不安を抱えていたはずだ。しかし、悲しきかな、過ぎてしまえば、もうあまり記憶には留まっていないものである。


もし目の前にドラえもんが登場して「昔の君に会わせてあげる」と言ったなら、今の僕は「生きる意味」に悩む自分になんて言葉をかけるだろうか。
「その意味は見つけるものじゃなくて、作るものだよ」と、いかにもな台詞を口走りそうになったら、ドラえもんに何かしらの道具で阻止してもらおう。今はそんなことくらいしか決まっていない。
 
たとえ記憶から消えてしまっても、こうやって日記を通して過去の自分と対話できるのだから、生きていれば面白いこともある。
日々を記録する目的のほかに、こうした副産物を活用するのも実に楽しい。日記はいわば、未来の自分への手紙ともいえる。だから、この文章も、きっと何年後か、下手したら何十年後かの僕が読んでいるはずだ。

「こっちは今こんな感じだけど、そっちはどうですか?」
声など聞こえるはずもないが、思わず問いかけてしまった。昔からの問い癖は、生涯直りそうにない。

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