【罪と罰】 ドストエフスキー
できるだけ新しい視点をもち、どのような仕掛けがあるか考えながら読んだ。白痴でもドストエフスキーの仕掛けに色々騙されたので(笑)それでもやっぱり気持ちいい!!(笑)
今回も色々な仕掛けがあって面白かった。
まずはストーリーについて。刑事と犯人の心理対決。お互いのバチバチのバトル。しかし腹の底は見せない。普通のエンタメとして読んでも面白い。
最後まで読むと愛で救われる、みたいな感じで終わらせている。社会に対して警鐘を鳴らしているように見える・・が!
実はこれ、ドストエフスキーの壮大な仕掛けで、他の見方もできるような気がします。それは、無意識と意識の区別がつかずに考えすぎる人間。そんな人間を人、社会は許すことができるのか?ということ。そもそも【許す】という行為や、人を裁く事を他人にする権利があるのか。。罪とは自意識の話。罰は他人が決めたルールの話。難しい。。。
とにかく、この主人公!ラスコーリニコフが怖すぎる!最後まで読んでも怖い!怖い!怖い!もし、この物語が続くなら彼はどーなっているのか。ソーニャによって救われるのか?
自分は違う物語が始まる気もする。それはラスコーリニコフはスヴィドリガイロフのようになるのでは?ということ。確かにソーニャによって更生する可能性もある。しかし彼のやったことを思い返してほしい。
彼は物語を通して、全て!全て!自分の思い道理に動かしているのである。それは将棋の駒を打つように。途中、良心の呵責に悩むこともあるが、やはりそれも無意識に、そう思える自分を意識し、自分をいい人間と思いたいのでは?要は全てが作り物の性格。どこまでいっても理屈でしか物事を考えられない、という事である。そうやって物語を見ていくとかなり怖い。全てが計算かもしれない。確かに本当に悩んだりしている部分もあるが、本当に心の奥底から悩んでいるのか?微妙である。やはりどこか人のことというより、自分にとって得か損か?しか考えられていないのかも。
ポルフィーリの話から、ある神学生が無罪を勝ち取ったとあるが、これが最大のポイントだと思う。
主人公はずっと最初から捕まえらる事を計算して行動していた。無意識のなかでも。どっちともとれるような行動ばかりして。
友人の証言により裁判が減刑されたが、もしかしたらそのために善行をしていたかもしれない。いつか良い事がおきるからと。ソーニャを助ける理由もかなり自分勝手、共感力のない考え。スヴィどりガイロフと一緒。結局、自分の思い道理になり、小心者で自殺もできないラスコーリニコフはソーニャと人生を歩むだろう。不思議な感じ。
自意識過剰、小心者、主人公はこの二つの特性をもっている。それが引き金か?あとは長い引きこもり生活による自問自答。
おそらく妹、母にも少しこの主人公と同じ特性が入っているかも?と思った。この家族怖い。。。