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感情と〈市場/詩情〉について

 途轍もない酷暑がつづく夏に、僕は毎日のように清涼飲料水を飲み干す。清涼飲料水に付き纏っている青春性のとおくで、それでも、色鮮やかに着色された液体を太陽に透かしながら、ペットボトルの底で泳がせていると自然と爽やかに気持ちになってくる。

涙に色があったら(人はもっとやさしくなる)

欅坂46『世界には愛しかない』

 これは秋元康が書いた詞のなかで飛びぬけて好きな一節で、色と感情のかかわりを直接的に、かつ負の側面を強調して表現しているのがすばらしい。人体から流れる真っ赤な血液を視たときに僕らが怯むように、もしも涙が真っ青だったなら、僕らは人を泣かせることに躊躇いを覚えて、結果的にやさしくなる(なれる、ではないのがさらにいい)。


 
 この世には貨幣的な価値観に基づくあらゆる交換レートがある。色もそうだ。この色を視たらだれでもこんな気持ちになる、そういった計算のもとで僕の愛する清涼飲料水は大量の着色料に染め上げられている。言葉もそうだ。こう云ったらあなたは涙を流すし、こう云われたら僕は思いっ切り笑う、そういう適切な交換レートに基づいて言葉と感情の取引が日々行われている。

あなたがまだ今よりももっと早口でマジでいきなり笑ってたころ

伊舎堂仁「も可」『現代短歌パスポート 恐竜の不在号』

 相手がこのくらいの話すスピードなら、僕もこれくらいのスピードは出していい、あるいは出さなくてはいけないという場がたしかにある。このくらいの冗談なら、軽く鼻で笑ったり、失笑したりするのが適切だという場で、あなたはマジでいきなり笑いだす。そんなあなたに僕は惹かれていたのに、あなたはいつしか世間の貨幣的な価値観に従って、周りに合わせるようになる。その右手で口許を隠しながら静かに笑うようになる。なってしまう。
 あなたが声を落として辛いトラウマを打明けるとき、僕も同じくらい声を落として、適度な間隔で相槌を打たなければならない。そういう交換レートが適切だからだ。決してそうしたいわけではない、のに。

 ここから僕はいきなり、お前、と二人称を変えてみる。そうするとお前の、これからの文章に対する印象もまるで変わってしまう。それはそういう約束事だから仕方がない、逆に云えば、僕はお前と書くだけで簡単にお前のその感情を引き出すことができる。
 言葉や詩でお金を貰いたくない、といったさも崇高な詩人のような矜持は僕にはまったくない、ただ、言葉を貨幣のように使いたくない、と思う。

私の思う愛がみんなとおんなじで、じゃないと愛って成立しない

長谷川麟『延長戦』

 なら、僕たちはいかにして〈愛〉を言葉にしていけばいいだろう。資本主義的な適切な交換レートのもとでしか僕らが愛し合えないのだとしたら、僕はどうやってお前のことをマジでいきなり愛したらいいのだろう、愛にかたちがあったら人はもっと簡単に人を愛するだろうか。

実際にはすべての言葉が使い古されクタビレているのである。それを洗いながす。真新しい言葉に仕立て直す。その努力が必要なのだ。むしろ詩や小説はそのためにある。

大江健三郎『新しい文学のために』

 僕はこれからも必死に何度も詩を書いて、言葉を洗い流して真新しく仕立て直していく。たとえば〈愛〉という言葉を。それでもそのたびにお前は、〈愛〉に黒く染め上げられたCoca-Colaをつい零してしまう、僕はマジで笑いながらそれを拭いてやる、その一瞬間にのみ、僕は僕たちだけの〈愛〉で、「ごめんね」って謝るお前の眼から流れ落ちる真っ青な涙を拭うことができる。

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